紀元前4世紀のマケドニア アレキサンドロス大王の全盛期

紀元前4世紀、ギリシャ北部に英雄が誕生した。アレキサンダー大王である。アレキサンダー大王はマケドニアをエジプトからインドまで広がる大帝国にした。

後継者は最強の男

 アレキサンドロス大王は、インド遠征から帰国。バビロン(イラク)で病に倒れて亡くなった。アレキサンドロスは若くして亡くなり、成人した後継者はいなかった。

 その後、側近たちによる後継者争いが行われた。これをディアドコイ戦争(後継者戦争)という。これにより、ギリシャのアンディゴノス朝マケドニア、エジプトのプトレマイオス朝エジプト、イランやシリアなどのセレウコス朝シリアである。これにより、アレキサンドロスが獲得した3つの地位はバラバラに刑法された。アンディゴノス朝は、マケドニア王とコリントス同盟の盟主の地位を、プトレマイオス朝は、エジプトの王ファラオの地位を、セレウコス朝は、アケメネス朝の後継者の地位をそれぞれ獲得した。 

アレクサンドロス大王

 36年、フィリッポス2世が暗殺。アレキサンドロス大王が即位した。ギリシャ南部で反乱がおきるも、これを鎮圧。アレキサンドロス大王は東方の強敵アケメネス朝ペルシャへ侵攻した。東方遠征である。30年アケメネス朝ペルシャを滅亡させた。

 このあと、アレキサンドロス大王は王の地位を知らしめるため、エジプトではファラオとなのった。24年にはアケメネス朝の王家の娘2人を娶り、アケメネス朝の後継者であることを占めした。このとき、アレキサンドロス大王の側近たちもアケメネス朝の貴族の娘と結婚した。

 アレキサンドロス大王はさらに東方へ侵攻した。中央アジアやインドのインダス川流域まで侵攻した。

マケドニア

 アレキサンドロス大王が誕生したマケドニアとはどのような国であろうか。マケドニアは、ギリシャ北部の山岳地帯に住む遊牧民族である。ギリシャの人々からは異民族の扱いを受けていた。

 しかし、紀元前5世紀に入るとペルシャ戦争が起きる。マケドニアはギリシャの諸都市(ポリス)と同盟を結ぶ。これにより、マケドニアのギリシャ化が進んだ。

 紀元前4世紀、アテネなどギリシャ南部の諸都市はペルシャ戦争やペロポネソス戦争で疲弊していた。59年、アレキサンドロス大王の父フィリッポス2世がマケドニア王に即位すると、ギリシャ南部へ侵攻。38年、アテネ・テーベ連合軍に勝利。ギリシャを統一し、ギリシャの諸都市(ポリス)とコリントス同盟を結成した。

 コリントス同盟によって、フィリッポス2世はアテネなどの諸都市の軍事と外交をにぎった。紀元前8世紀に始まった。アテネの民主政もコリントス同盟で終了した。

アカデメイア

4世紀前半のギリシャ

 舞台を北方のマケドニアからギリシャ南部に移してみる。ギリシャは統一的な国家がなく、それぞれの都市が独自に政治を行っていた。これをポリスという。多くのポリスには国王はなく、少数の市民の合議制で政治が行われ、市民は多くの奴隷を使って生計を担っていた。一方で市民は

 マケドニアが侵攻する前のギリシャは紀元前5世紀後半から都市国家(ポリス)間の争いが絶えなかった。その中心はアテネとスパルタ、テーベであった。

 絶え間なく続く戦争は、農作業の時間を奪った。手入れを怠った農地は荒廃。多くの市民は土地を失った。これにより、市民から奴隷に身を落とすものも多くなった。彼らの多くは傭兵となった。ギリシャのポリス(都市国家)の軍隊を担う市民の減少で軍事力が低下していた。

アカデメイア

 アカデメイアは、アテネの郊外にプラトンが作った学問を行う空間である。今でいう大学である。アカデミーの語源は、アカデメイアである。アカデメイアは将来の民主政アテネを担う優秀な政治家の育成機関として設立された。

 アカデメイアによって、哲学や数学、天文学などが飛躍的に発展した。このアカデメイアは6世紀、ユスティアヌス帝(東ローマ帝国)によって閉鎖された。

プラトン

 アカデメイアを作ったプラトンはギリシャのアテネの哲学者である。ソクラテスの弟子である。真実の世界といわれるイデアの存在を説いたイデア論を展開した。

 プラトンは、一時シラクサの政治顧問を行った。シラクサは、シチリア島(イタリア南部)にギリシャ人が作った都市国家(植民市)である。当時のイタリアは共和政ローマがイタリア半島統一に向かっていた時代である。シチリア島を侵攻する余裕などなかった。一方で、シチリア島にはギリシャ人以外の勢力も存在した。北アフリカのフェニキア人国家カルタゴである。シラクサとカルタゴはシチリア島と西地中海の勢力圏を争っていた。

アリストテレス

 アカデメイアには、男女を問わず多くの若者が学んだ。その出身地もさまざまであった。アリストテレスもその一人であった。アリストテレスは、マケドニアの出身である。フィリッポス2世がアテネへ侵攻すると、マケドニアに戻りアレキサンドロス大王の家庭教師を務めた。

 プラトンを批判して、現実を客観視する経験論を展開した。アリストテスはアカデメイアに対抗して、アテネにリュケイオン等学問使節を作った。