15世紀のイギリス 百年戦争とばら戦争

前回の復習 絶対王政の始まりテューダー朝

 16世紀はテューダー朝の時代である。この頃からイングランド版絶対王政が始まった。16世紀は宗教改革の時代と重なった。この時代にイングランド国教会も成立した。スイスで成立したカルヴァン派や当時の大国カトリックの対立でイングランドの政治はおおきく変動した。

 今回は、貴族が没落するばら戦争とその要因となった百年戦争を見ていきます。

ランカスター朝

ヘンリ4世 ランカスター朝を開く

 百年戦争の最中、プランタジネット朝のリチャード2世は廃位させられた。王位を継いだのはランカスター家のヘンリ4世であった。ヘンリ4世は、フランスとの和平の道を模索していた。

ヘンリ5世 百年戦争を再開

 しかし、百年戦争は新たな転換期を迎えた。フランスの分裂である。フランス王家とその従弟のブルゴーニュ公の対立である。国王派はオレルアン派とよばれ、フランスの南部と西部の貴族が集まった。一方で、ブルゴーニュ公派はブルゴーニュ派と呼ばれた。フランスの北部と東部に集中した。

 ヘンリ5世は、再びフランスへ侵攻。百年戦争を再開した。ヘンリ5世はブルゴーニュ派との連携した。ヘンリ5世とブルゴーニュ公は、フランス国王シャルル6世を即位させた。ヘンリ5世は、シャルル6世の娘と結婚。

 ヘンリ4世の後を継いだヘンリ5世は、フランスとの百年戦争を再開した。しかし、フランスは敗戦。カレーを除く大陸領土をすべて失った。

コンスタンツ公会議で大シスマが解消

 当時、ローマ=カトリックは、フランスのアビニョン教皇庁とローマ教皇庁に分裂していた。神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ皇帝)ジキスムントはこれを解消するためコンスタンツ公会議を開いた。これにより、教皇庁はローマ教皇に統一された。

 また、イングランドのウィクリフやボヘミア(チェコ)のフス派この公会議で異端とされた。フスは、火あぶりにされ、ウィクリフは土葬された死体が掘り起こされ死体を焼かれた。キリスト教では土葬が一般的である。その理由は最期の審判の際によみがえるときに使うためである。死体が焼かれるとは最期の審判で蘇られないことを意味している。

ヘンリ6世、ジャンヌダルクに敗れる

 イングランド国王ヘンリ5世とフランス国王シャルル6世が亡くなると、ヘンリ6世がイングランド国王兼フランス国王として即位した。ヘンリ6世は父が前イングランド国王ヘンリ5世であり、母方の祖父は前フランス国王シャルル6世である。

 これに対し、オレルアン派は、シャルル7世を即位。フランス国王が2人いる状態となった。しかし、パリを押さえているのはイングランド・ブルゴーニュ連合軍のヘンリ6世サイドである。ヘンリ6世は、シャルル7世のいるオレルアン包囲を実施した。

 そのような絶体絶命なオレルアン派に救世主が現れた。ジャンヌ=ダルクである。ジャンヌ=ダルクはオレルアン包囲を解放。シャルル7世を救った。シャルル6世はパリに入城。ブルゴーニュ公と和解。これにより、イングランドは敗北した。

 百年戦争の敗北によって、ランカスター家は大きく貴族の支持を失った。これにより始まったのがばら戦争である。

ヨーク朝とばら戦争

 ヘンリ6世は、晩年精神的に異常をきたしていた。本来は自分の息子に王位を渡すべきなのだがまだ幼すぎた。そのため、ヨーク家のリチャード3世は味方になる貴族を集めていた。これに対し、ランカスター家も味方になりそうな貴族を集めていた。これにより始まったのが、ばら戦争である。ばら戦争の語源は、対立した2つの家の紋章にあった。ランカスター家は赤ばら、ヨーク家は白ばらであった。

 ヨーク家のリチャード3世は60年に戦死した。しかし、リチャード3世の息子がロンドンにはいりヨーク朝を開いた。ランカスター家はスコットランドへ亡命した。

 ランカスター家の王妃(ヘンリ6世の妻)はさらに、フランスへ渡りルイ11世の支援を取り付けた。ヘンリ6世はルイ11世の支援を得て再びイングランド王に復帰した。

 ヨーク家エドワードは、今度はフランスの有力諸侯ブルゴーニュ公を味方につけた。さらに、イングランド貴族やロンドン市民を味方につけて、ランカスター家のヘンリ6世を幽閉。再びイングランド王についた。

 しかし、エドワードの傍若無人さに、イングランド貴族の心は離れていった。そこでイングランド貴族が新たな王を擁立した。ランカスター家の遠縁にあたるヘンリ7世である。このヘンリ7世の即位によって30年にわたるばら戦争は終結した。

ばら戦争はイギリス版応仁の乱

 国家を二分するばら戦争は、多くの有力貴族を没落させた。そのため、ヘンリ7世が成立させたテューダー朝は、王権の強い王朝となった。また、没落貴族のかわりに台頭してきたのが新興地主ジェントリーである。ジェントリーが力をつけてきたのがテューダー朝の時代である。

 このころ、日本でも、後継者争いで国家が二分された。応仁の乱である。当時、日本は室町時代。次の将軍の座をめぐり有力守護大名が東西二手に分かれて戦った。これにより、京都は焦土と化した。

 応仁の乱によって、有力守護大名は次々没落した。代わりに台頭してきたのが下剋上で台頭してきた戦国大名である。この時代の変革はそれぞれの国にスターを誕生させた。16世紀後半、イングランドではエリザベス女王が登場。一方で、日本では織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が台頭した。

平和外交を進めるヘンリ7世、テューダー朝を開く

 85年、ばら戦争によって成立したのがテューダー朝である。テューダー朝を開いたのはランカスター家の遠縁にあたるヘンリ7世である。ヘンリ7世はイギリス国王に即位した。

 武力で国王になったので正当性が欲しい。ヨーク朝から后を迎える。紋章もヨーク家の白バラとランカスター家の赤バラを組み合わせた「チューダ・ローズ」となった。

 このころから、皇太子のことを「プリンス・オブ・ウェールズ」と呼ぶようになる。

 ヨーク家を支持する貴族による反乱が頻発。ヘンリ7世はこれを弾圧した。これにより貴族の発言力は低下。絶対王政が確立していく。その象徴がウェストミンスター宮殿にある星の間につくられた星室裁判所である。また、弾圧された貴族の領地は国王の領地となった。これにより王室財政は潤った。

 ヘンリ7世は平和外交を進めた。自分の娘をスコットランドに嫁がせた。また、息子のアーサー(のちのヘンリ8世)の后をスペイン王室から迎えた。

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