1980年代前半のイギリス 「鉄の女」サッチャー首相首相とは?

1980年代、日本はバブル経済に向かってた。当時の中曽根首相は、JRやJTなどの国有企業の民営化政策を次々行った。また、ロンヤスに象徴されるほど日米関係は強硬なものであった。

 その80年代、イギリスに女性首相が誕生した。保守党のサッチャー首相である。サッチャー首相はタカ派の首相として知られている。政策は中曽根首相に近い。経済面では、政策を大きく転換し自由化政策を促進。外交面では親米政策を進めた。また、サッチャー首相に「鉄の女」と知らしめたのが、フォークランド紛争である。

前回の復習
 80年代後半のイギリス

 サッチャー首相は、外交面では親米政策、反共政策をつき進めていた。日米英の京子の外交関係が、冷戦の終結に結び付いた。一方で、経済面では、自由主義政策で経済は成長したものの失業率が高まり、負の側面も多く出ていた。

80年代の世界情勢
 ソ連アフガニスタン侵攻

 78年のイラン革命は、イランイラク戦争を引き起こした。この戦争ではアメリカとソ連はともにイラクを支援。米ソの協調路線を示すものであった。

 しかし、ソ連アフガニスタンに侵攻。これにアメリカが大きく反発した。

サッチャー首相の
自由主義的経済政策

背景)イギリス病とは

 60年代~70年代にかけて、世界的に経済は成長していた。しかし、イギリス経済は停滞していた。70年代には、第二次世界大戦の敗戦国である西ドイツや日本にも抜かれた。

 サッチャー首相は、労働組合ストライキ、公共事業による景気回復を狙うケインズ経済政策にあると思われた。

背景)最新経済学、新自由主義とは

 60年代~70年代の経済学の中心は、ケインズ経済学である。ケインズ経済学では公共事業などの財政出によって景気回復ができるという理論である。これは、1930年代の世界恐慌時に効果を出した。その代表が皮肉にもドイツのヒトラーであった。

 しかし、70年代、この経済政策の負の面がでた。不況とインフレの同時進行である。

 この時代に台頭したの新自由主義である。彼らの考えは規制緩和や民営化によって景気を回復を進めようという考えである。その筆頭が、イギリスのサッチャー首相と日本の中曽根首相である。

サッチャー首相の経済政策、小さな政府

サッチャー首相の具体的な経済政策は以下のとおりです。

国営企業の民営化
 労働党内閣が国有化した企業を次々民営化した。

社会保障の削減

サッチャー首相のタカ派外交

イランイラク戦争

 80年、イランとイラクで国境紛争が勃発した。
 78年のイラン革命で、親米政権が崩壊。国際的に孤立していた。アメリカ、欧州、中国、ソ連はそろってイラクを支援した。

 イギリスも当然、イラクを支援した。

アフガニスタン侵攻

 ソ連が、アフガニスタンへ侵攻。同じ年にモスクワオリンピックを開催
 アメリカの呼びかけでモスクワオリンピックボイコットが行われた。
 イギリスは、日本同様これに賛同した。

フォークランド紛争

 フォークランド島は、南米アルゼンチン付近の大西洋に浮かぶ島である。16世紀の大航海時代にイギリス領になった。

 82年、アルゼンチンは軍事政権であった。そのアルゼンチンがフォークランドへ侵攻。実効支配を行った。

 多くの政治家は、交渉によって撤兵させようとしていた。しかし。サッチャーはアルゼンチンに軍隊をおくり、奪還した。失業率の高さや社会保障費の削減で支持率を落としたサッチャー首相は支持率を回復した。

香港返還交渉

 香港は、1842年香港島を永久領土として清王朝から割譲された。(返還義務はない)また、1860年のアロー戦争で香港島の近くの九龍半島の一部を獲得した。(返還義務はない)1898年の中国分割の時に、九龍半島全体を99年の期限付きで租借した。ちなみに98年にイギリス領になったエリアは「新界」と呼ばれた。その返還期限は1997年になる。

 82年、サッチャー首相は中華人民共和国を訪問した。この時のサッチャー首相はフォークランド紛争に勝利したばかりで強気の外交が行われるものと思われた。サッチャー首相は、返還義務のある「新界」の返還のみを考えていた。しかし、中華人民共和国の鄧小平氏は、香港全体の返還を望んでいた。鄧小平氏サッチャー以上の強気の外交を行った。香港を返還しなければ、武力行使や水の供給停止を行うと脅した。

 84年、中英共同声明が出された。内容は次のとおりである。香港はすべて返還する。一方で、中国は一国二制度をとり、2047年まで資本主義経済を認める。中国は、香港人民のストライキ権を認める。(つまり、香港でデモやストライキを行うことはこの声明で保障されていることになる。)香港のトップ(香港特別行政区長官)は、選挙で決定する。 

 中国に対して軟弱外交を行ったことで、サッチャー首相は国内外から批判を浴びた。 

EC離脱を唱える労働党

 EC加盟について保守党は積極的であり、労働党は懐疑的であった。83年の総選挙で、野党労働党はEC離脱を訴えて選挙に臨んだ。しかし、労働党は大敗した。これにより、労働党は親EU路線へ路線変更を行った。
 また、サッチャー首相はEUには懐疑的な立場をとっていた。しかし、85年欧州単一議定書(EUに関する最初の条約)を批准した。

南アフリカアパルトヘイト問題

 南アフリカは、黒人差別を行う政策(アパルトヘイト)を行っていた。 

 77年のアパルトヘイト反対運動行った大学生が拷問で亡くなったのを受け、80年代の南アフリカは国際的に孤立していた。南アフリカは84年に憲法改正。白人と黒人のハーフやインド系移民に選挙権を与えられたが、アフリカ人に選挙権は与えられなかった。この改正が、アパルトヘイト反対運動に拍車がかかった。