16世紀前半のアメリカ スペインによる征服

価格革命へ

 スペインは、インカ帝国征服するとその近郊でポトシ銀山を発見した。45年のことである。

 ポトシ銀山で発見された銀は、スペインへ持ち込まれた。スペイン王室の財政を潤した。一方で、銀の大量流入で物価が高騰した。特に農産物価格は高騰。西欧では、小作人の地位が著しく向上した。

 一方、ポトシ銀山の銀は、明王朝(中国)へも流れた。これにより中国も豊かになった。16世紀後半には一条鞭法が施行。銀による納税が始まった。

スペインのアメリカ征服

インカ帝国(南米ペルー)

20年代、メキシコのアステカ帝国を滅ぼしたスペインは、南へ向った。33年、ピサロを南米のインカ帝国(現在のペルー)へ派遣。インカ帝国を征服した。

アステカ王国(中米メキシコ)

 スペインの商業船は、中米カリブ海を拠点にした。19年、カルロス1世はコルテスを中米へ派遣。21年。コルテスは中米メキシコのアステカ王国を滅ぼした。

スペインの強さの秘訣

 スペインは、アメリカの2大帝国を征服できたのであろうか。それは2つの要因がある。

 1つは、最新兵器鉄砲である。鉄砲が使われ始めたの16世紀である。鉄砲で強国となった織田信長は16世紀後半である。

 もう一つは、病原菌である。スペインが持ち込んだ病原菌によって、アメリカの先住民の大部分は亡くなった。それは抗体がなかったためである。

スペインのアメリカ探検

 19年、マゼランが世界1周の航海に出発した。マゼランはアメリカ大陸の最南端を回った。そこから、アメリカ大陸最南端の海峡をマゼラン海峡という。マゼランを大西洋を横断し、フィリピンに到着した。フィリピンの由来は、カルロス1世の息子、フェリペ2世からである。マゼランはフィリピンで千住民によって殺された。しかし、マゼランの部下が22年スペインに戻った。

 16世紀に入ると、探検家アメリゴ=ヴェスブッチがアメリカ大陸を探検。アメリカ大陸はアジアとは異なる大陸であることが判明した。同じこと、ポルトガルの支援でアフリカを航海中の探検家カブラルが南米のブラジルに漂着した。カブラルによってブラジルの探検が始まった。これにより、ブラジルはポルトガル領になった。13年、探検家バルボアは大西洋とは別の海を発見した。こちらは穏やかな海であった太平洋といわれた。

 コロンブスがアメリカ大陸に到達したのは、15世紀末である。しかし、コロンブスはアメリカ大陸と認識することができなかった。

16世紀前半のスペインは?

 このころのスペインはどのような国であったのであろうか。うペインは15世紀末にレコンキスタを完成。イスラム教徒を追放した。

 16年、ハプスブルク家のカルロス1世がスペイン国王になった。スペイン=ハプスブルク家の始まりである。19年、カルロス1世は、神聖ローマ皇帝に選ばれた。カルロス1世は、神聖ローマ帝国(ドイツ)ではカール5世と呼ばれた。

 神聖ローマ帝国(ドイツ)では、ローマ教皇によって贖宥状の販売が行われた。カルロス1世は、これを支援した。神聖ローマ帝国(ドイツ)北部ではルターが「95か条の論題」を発表。ルター派が誕生し、ローマ=カトリックと対立するようになった。

 カルロス1世は、ルター派に対して寛容な政策をとった。その理由は、ルター派以外に2つの敵と戦わなければならなかったからである。フランスとオスマン帝国(トルコ)である。

 フランスでは、フランソワ1世とイタリア戦争を展開していた。

 一方、オスマン帝国はスレイマン1世の全盛期である。カルロス1世は、プレヴェザの海戦でオスマン帝国に敗北した。