16世紀後半のアメリカ ポトシ銀山と価格革命

16世紀後半、日本は戦国時代のクライマックスを迎えようとしていた。そのころ、アメリカはスペイン人による開拓が進められていた。

16世紀のアメリカ

スペインの占領

 16世紀のアメリカは、スペインの植民地であった。15世紀末のトルデシリャス条約によってスペインはアメリカの権益を独占することができた。

 スペインは、中米メキシコにあったインカ帝国と南米ペルーにあるアステカ帝国を滅ぼした。

エンコミンダ制(奴隷の容認)

 アメリカの当時の農場経営はエンコミンダ制で行われていた。スペイン国王は、アメリカに向かうスペイン人入植者に次のような特権を与えた。キリスト教の布教を条件に土地と現地の人々を労働力として使うことを認めた。すなわち、先住民であるネイティブアメリカン(インディアン)をどれいにしてもよいという特権である。

 この制度は、レコンキスタ(国土回復運動)時に始まった。ギリシャ騎士団にイスラム教徒から奪った土地を一時的に保有する権利を与えた。これがエンコミンダ制の始まりである。これはアメリカだけのことではなかった。これはアフリカや日本でも行われていた。

 しかし、アメリカのエンコミンダ制は長くは続かなかった。過酷な労働やヨーロッパからもたらされた病原菌でネイティブアメリカが激減した。また、過酷の労働を批判するものもあらわれた。宣教師ラス=サカスもエンコミンダ制を批判した。そのため、エンコミンダ制は、アフリカ黒人奴隷を利用した大規模農園に替わった。この頃から黒人奴隷貿易が始まった。

ポトシ銀山と価格革命

 16世紀半ば、南米アステカ帝国で銀山が発見された。ポトシ銀山である。これにより、スペインは、大量の銀を獲得した。フィリペ2世はこれを海軍増強に利用した。その結果、レバントの海戦でオスマン帝国に勝利。

 大量な銀は、農産物価格を高騰させた。西欧は地主への納税は銀で納めていた。そのため、小作農は豊かになり自作農になっていた。一方で、地主階級である貴族や騎士は農産物価格の高騰で生活が困窮した。そのため、多くの貴族や騎士は没落した。
 一方、東欧は、農産物のまま納付した。そのため、地主階級は急速に力を持つようになった。

スペインのフィリピン占領

フィリピンは、東南アジア諸島部の最北部に位置している。太平洋と南シナ海をわける。島国であった。

16世紀前半、マゼラン船団がフィリピンに到達。16世紀後半に入るとスペインの植民地化が本格化した。当時のフィリピンは後期倭寇の拠点の一つであった。そのため、スペインは後期倭寇の襲撃を何度も受けていた。

 フィリピンは、スペインの唯一のアジアの拠点であった。(ポルトガル併合前まで)。スペインは、新大陸(アメリカ)の銀をフィリピン経由で明王朝へ流した。そのため、多くの銀が明王朝へ流入した。これにより、明王朝では銀が一般通貨として普及。一条鞭法で税金が銀に一本かされた。

イングランドのヴァージニア植民地

この時代、イギリスもアメリカへ進出した。当時のイギリスは、アルマダの海戦に勝利し、エリザベス1世の黄金期を迎えていた。イギリスは、アメリカ南東部のに拠点を置いた。この地はエリザベス1世の別名をとって、ヴァージニアと呼ばれた。この名称は現在でもヴァージニア州として残っている。イギリスは、このヴァージニアを皮切りにアメリカ東海岸に広大な植民地を獲得した。これが13植民地である。そして、この13植民地が200年後のアメリカ独立戦争を引き起こす。

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