1750年代のアメリカ フレンチ=インディアン戦争

今回は、アメリカ独立戦争のきっかけとなったフレンチ=インディアン戦争を見ていきます。この戦争によってフランスは新大陸から撤退。第二次英仏百年戦争はここに終わる。

フレンチ=インディアン戦争の構図

フランスvsイギリス

 17世紀後半から18世紀にかけて、イギリスとフランスは植民地をめぐり、断続的に戦争を続けていた。これを第二次英仏百年戦争という。この舞台は、新大陸とインド(ムガル帝国)であった。

当時のイギリス植民地は

 イギリスは17世紀初頭のエリザベス女王の時代からアメリカでの植民地活動を展開してた。そのためアパラチア山脈以東のアメリカ東海岸に植民地展開していた。

 イギリスでは、インディアンを追い出し、南部では黒人奴隷を使った大規模農場を展開。一方、北部では小規模農場と手工業が展開されていた。

当時のフランスは

 一方、フランスはイギリスから遅れて17世紀後半からアメリカの植民地活動を本格化させた。アメリカへ進出した時には東海岸はイギリスに抑えられていた。そのため、フランスはカナダ(ケベック)から五大湖を通りアメリカ中央部へ進んだ。

 フランスの植民地は、フランス国王ルイ14世の名をとってルイジアナと呼ばれた。ルイジアナは東がアパラチア山脈があり、イギリス植民地に接しており、西はロッキー山脈があり、スペイン領カリフォルニアがあった。中央にはミシシッピ川が流れ、これを使って交易をおこなった。

 フランスは、イギリスとは異なりネイティブアメリカンとの交易で収益を上げていた。

ネイティブアメリカンとは

 ネイティブアメリカン(インディアン)とはコロンブスがアメリカ大陸を発見する前からアメリカ大陸にいた人々である。アジアの方から移動してきて、狩猟や採取によって生活していた。

 ネイティブアメリカは、主にルイジアナ東部に集中していた。かれら、フランスとの交易を進めた。

七年戦争

 七年戦争は、オーストリアがプロイセンに敗れた戦争である。

 オーストリアのマリアテレジアは、オーストリア継承戦争で奪われたシュレジエン奪還のためにプロイセンに侵攻した。オーストリアは、この戦争のために長年の敵であったフランスと同盟を結んだ(外交革命)。この外国革命でオーストリア・フランス・ロシア連合軍vsプロイセンの構図となった。

フレンチ=インディアン戦争の展開

 フレンチ=インディアン戦争は、フランス植民地の五大湖周辺が主戦場となった。

 フレンチ=インディアン戦争は、当初、地の利があるネイティブアメリカンを味方につけたフランスが優勢であった。しかし、ピット(大ピット)首相が指揮を執るようになると形勢逆転。59年にはカナダのケベック、60年にはカナダのモントリオールを占領した。

 ペンシルバニア州の要塞には、この戦争の英雄ピット首相の名をとってピッツバーグと名付けられた。