1770年代のアメリカ アメリカ独立戦争勃発

 1770年代、アメリカは独立戦争の真っただ中にあった。今回はアメリカ独立戦争を中心に見ていきます。

独立戦争時のアメリカ

 アメリカは山脈と川で4つの地域に分けて考えることができる。それは、アメリカ東部のアパラチア山脈、アメリカのど真ん中を流れるミシシッピ川、そしてアメリカ西部のロッキー山脈である。

 独立戦争時、ミシシッピ川の東がイギリス領、ミシシッピ川の西側がスペイン領であった。イギリスは、これ以外にカナダを植民地にしていた。一方スペインは、中米のメキシコやキューバなどを植民地にしていた。

 13植民地は、アパラチア山脈の東側全域にひろがっていた。フレンチ=インディアン戦争でミシシッピ川までイギリス植民地が広がったことでアパラチア山脈の西側へ移住するものも増えた。

 63年、イギリスとアメリカ13植民地は、フレンチ=インディアン戦争で、フランス・ネイティブアメリカン(インディアン)連合軍に勝利した。

 イギリス本国は、フレンチ=インディアン戦争の戦費と回収するため、アメリカ13植民地に重税を課した。印紙税などである。これによりアメリカ13植民地とイギリス本国の対立は明確になった。

ボストン茶会事件

茶法の制定

 18世紀後半、世界で紅茶ブームが起きた。中国(清王朝)産のお茶が世界各地で売れた。13植民地でも紅茶をたしなむ人は多かった。イギリスの植民地では、イギリス東インドが会社が中国産茶の独占販売権を持っていた。しかし、13植民地の一部の人々はオランダ商人からお茶の密輸入をしていた。

 イギリス本国政府は、73年4月に茶法を制定。イギリス火が非インド会社はイギリスの仲買人を通さずに植民地で販売できるようにした。これに対して、茶の密輸業者やイギリスの仲買人が反発。

ボストン茶会事件

 73年12月、インディアンに扮した植民地の市民がボストン港に停泊していたイギリス東インド会社の船を襲った。これがボストン茶会事件である。

 イギリス本国は、すぐさま海軍を派遣。ボストン港を閉鎖した。ちなみに、ボストンはニューヨークの北にある港町で古くから栄えた街である。ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)など、歴史のある大学が多く存在する。

第1回大陸会議

 イギリス13植民地の代表のうち、ジョージア州を除く12州の代表がフィラデルフィアに集まった。第1回大陸会議である。フィラデルフィアはニューヨーク州にあるペンシルベニア州の街。内陸の都市のため、イギリス海軍の砲弾が届かない場所にあった。

 ワシントンは南部ヴァージニア州の代表として、アダムスは問題をおこしたボストンのあるマサチューセッツ州の代表として参加した。

 第1回大陸会議は開戦派(愛国派)と反対派(国王派)が対立。愛国派の主張が通り、イギリス立法権の否定とイギリス製品のボイコット運動が採択された。しかし、独立戦争開戦までは決議できなかった。

アメリカ独立戦争勃発

 ボストン茶会事件以降、イギリス本国軍はボストン(マサチューセッツ州)に駐屯していた。75年4月、マサチューセッツ州の町レキシントンをイギリス軍が進軍。警戒していた町の人々はイギリス本国軍を攻撃。これにより、アメリカ独立戦争は勃発した。(レキシントンの戦い)

 75年5月、フィラデルフィアで第2回大陸会議を開催。マサチューセッツ州の救援に向かうことが決定された。このとき、総司令官に選ばれたのがワシントンである。これにより、アメリカ独立戦争は、「マサチューセッツ州VSイギリス本国」から「アメリカ13州vsイギリス本国」の戦いとなった。

アメリカ独立宣言

 翌76年1月、トマス=ペインがアメリカ独立戦争の正統性をhしめた冊子「コモン=センス」を発表。アメリカ独立宣言に大きな影響を与えた。

 ワシントンと同じヴァージニア州出身のジェファソンが独立宣言を起草。フランクリン(ペンシルバニア州)やアダムス(マサチューセッツ州)の加筆を受けて、76年7月4日、アメリカ独立宣言が発表された。

 独立宣言は、自由・平等を人間が生まれながらにして持っている権利とみなし、それを侵害するイギリスの正統性を主張したものである。

 この独立宣言は、植民地軍の士気を上げるほか、フランスなどヨーロッパ諸国の支援を得るために作成された。フランクリンはこの独立宣言を持ってヨーロッパにわたり援軍交渉を行った。

 また、独立宣言には闇の部分もある。独立宣言の中にある「人間」にはネイティブアメリカン(インディアン)や黒人奴隷は含まれていないと当時は解釈されていた。

 77年6月、植民地軍の旗として星条旗が制定された。

フランス、スペインの参戦

独立戦争時のフランス

 18世紀初頭、フランスはヨーロッパの超大国であった。太陽王ルイ14世の時代である。ヴェルサイユ宮殿が当時の栄光を示している。植民地政府の人々もフランスの援軍があれば勝てると踏んでいた。

 しかし、当時のフランス王室は、七年戦争で海外植民地の大部分を失い困窮していた。フランス王ルイ16世は、とてもアメリカに援軍を送る余裕はなかった。

独立戦争時のスペイン

 18世紀初頭のスペインは、スペイン継承戦争でブルボン朝へ移行していた。そのため、親戚のフランス=ブルボン家と行動を共にすることが多かった。当時は、アメリカ西部をはじめ、メキシコやキューバに領土を持っていた。

義勇軍

 ヨーロッパの王家は、アメリカへの派兵に二の足を踏む中、アメリカ独立宣言に心を打たれた一部の貴族がアメリカへ渡った。フランスのラ=ファイエットやポーランドのコシューシコなどである。彼は、ヨーロッパへ帰国すると市民革命のリーダーとして活躍。19世紀初頭の市民革命の時代はこうして成立した。

サラトガの戦いに勝利

 開戦直後、植民地軍の苦戦が続いていた。庶民が、熟練した軍隊と戦っているのである。当たり前である。ただ、アメリカの庶民はただの庶民ではない。警察のいないアメリカ大陸で鉄砲を使って自分の土地や財産を守り続けていた。

 77年10月、転換期が訪れた。ニューヨークの北、サラトガの町で植民地軍がイギリス本国軍に勝利した。このニュースはアメリカ内外に伝わった。

フランクリン、フランスを動かす

 サラトガの戦いの結果は、フランスで交渉中のフランクリン(ペンシルバニア州)にも伝わった。この情報で、78年2月にフランス国王ルイ16世はアメリカ独立戦争への参戦を決断した。

 サラトガの戦いの結果は金融市場にも影響を与えた。当時の投資家は戦争の結果を予測しながら投資先を選んでいた。サラトガの戦いの結果によって、資金はイギリスからフランスへ流れた。そのため、フランスは増税をせずにアメリカ独立戦争へ参戦することができた。

 増税をしなかったことで当時の財務総監ネッケルはフランス国民の支持を集めた。この人気を背景にネッケルは、フランス革命のきっかけとなった特権階級への課税にチャレンジすることになる。また、アメリカ独立戦争のために発行した国債の返済(償還)のために、フランスの王室財政はさらにひっ迫。フランス革命へ向うのである。

 78年のフランスの参戦を皮切りに、79年にはスペインが、80年にはオランダが賛成した。 

武装中立同盟

 80年、イギリスはアメリカに対し海上封鎖を実施。ロシア皇帝エカチェリーナ2世は、これに反発。プロイセン(のちのドイツ)などをさそって武装中立同盟を結成。イギリスは完全に孤立した。

80年代 独立戦争に勝利

 植民地政府は、ヨークタウンの戦いで勝利、83年のパリ条約でイギリスに独立を承認させた。

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