16世紀、アメリカの植民地化を進めていたのは、スペインであった。しかし、17世紀に入るとオランダやイギリスの進出が始まった。
アメリカに進出していた国々
スペイン
16世紀、アメリカで覇権を握っていたのはスペインであった。カール5世の時代に、スペイン=ハプスブルク家が成立。さらに、フェリペ2世の時代には、アジアに多くの拠点を持っていたポルトガルを併合。文字通りの太陽の沈まぬ国となった。
オランダ
オランダは、カルヴァン派の多く住む地域であった。16世紀はスペインの支配下にあった。カール5世の時代には宗教に対して寛容な立場がとられていた。
しかし、フェリペ2世の時代にカトリックの強制が始まる。これにたいし、オランダの人々は独立運動を開始した。
イギリス
イギリスでは、16世紀後半にエリザベス女王の全盛期を迎えた。エリザベス女王が亡くなるとテューダー朝が断絶。スコットランドから国王を迎えた。スチュアート朝の時代である。
スチュアート朝の国王は、エリザベス女王と違い、貴族の意見をあまり取り入れていかなかった。また、敬虔なカトリック教徒であったため、カルヴァン派の弾圧を行った。
これにより、貴族などのイギリス国民とイングランド国王のあいだに軋轢が生まれた。これによりイギリスは市民革命の時代に入る。
フランス
フランスは、ユグノー戦争の結果ブルボン朝が成立した。ナントの勅令で宗教の自由が認められ、多くのカルヴァン派の商人がフランスにやってきた。
17世紀前半のアメリカ
マサチューセッツ州
30年、ジェームズ1世はボストンを中心としたマサチューセッツ植民地を建設。
イギリスの13植民地は、統治手法によって3つの種類に分けられる。
- 王領植民地
イギリス王室が企業を設立し、イギリス王室が企業を通じて直接経営する植民地 - 領主植民地
イギリス王室が個人に植民地経営を認める。 - 自治植民地
イギリス王室が住民に自治を認めた植民地
イギリス植民地は、それぞれ独自の植民地議会を設立。植民地の範囲内で一定の自治がみとめられていた。一方で、イギリス本国から総督が派遣され、最終的な権限は、本国政府が持っていた。
ピグリムファーザーズ(アメリカの父)
03年、エリザベス女王が亡くなると、テューダー朝が断絶。スコットランド国王のジェームズ1世を国王に迎えた。スチュアート朝の始まりである。
ジェームズ1世は、王権神授説を主張。エリザベス女王時代の議会(貴族)を尊重した政治から、絶対王政へ移行した。
宗教面では敬虔なカトリック教徒であったため、ピューリタン(カルヴァン派のプロテスタント)の迫害を行った。
20年、ジェームズ1世の迫害を逃れるため、ピューリタン(カルヴァン派)がアメリカへ亡命。ボストン近郊にプリマス植民地を建設。プリマス植民地は自治植民地としてスタートした。
ヴァージニア植民地
17世紀に入ると、重商主義の考え方が広まった。その考えに基づいて、イギリス、オランダとフランスは、それぞれ東インド会社を設立した。フランスはその後、一時撤退するが、イギリスとオランダの植民地戦争がここに始まった。
07年、イギリスは、アメリカに初めての拠点を置いた。ヴァージニア植民地である。
三十年戦争
三十年戦争とは
皇帝直轄領(オーストリア=ハプスブルク家)内のプロテスタント(ルター派)の人々の反乱に、近隣のプロテスタントの国々の人が参加した戦争である。
ウェストファリア体制
16世紀半ば、ドイツ(神聖ローマ帝国)の三十年戦争は終結した。その結果、ヨーロッパ次のようになった。
神聖ローマ帝国は事実上崩壊。各領邦が独立国と同様の立場となった。神聖ローマ皇帝は名ばかりのものになった。神聖ローマ皇帝であるオーストリア=ハプスブルク家はドイツ南部のオーストリアを支配するのみとなった。
フランスとドイツの間には、カルヴァン派国家であるスイスとオランダが成立し、両国の干渉的な役割を果たすようになる。オランダは、このとき、スペイン=ハプスブルクから正式に独立した。
ドイツ三十年戦争とオランダ独立戦争
オランダは16世紀後半からオランダ独立戦争が展開。スペインと交戦中であった。イギリスもオランダを支援していた。
ドイツ三十年戦争が始まるとオランダはプロテスタント側を支援した。
ドイツ三十年戦争は、オーストリアの支配下にあったチェコ(ベーメン)の人々が最初に反乱を起こした。神聖ローマ帝国の領主に宗教の自由は認められていたが、国民は領主の宗教に従わなければならなかった。そのため、神聖ローマ皇帝の直轄領であったオーストリアではカトリックが強制されていた。
チェコの人々の反乱は、神聖ローマ帝国内のプロテスタントの領主たちの支援を得た。そのため、反乱は長期化した。
さらにこの戦争に、デンマークやスウェーデンなどが参戦。その裏でフランスは資金援助を行っていた。
フランスはカトリック教の国であったが、ナントの勅令で宗教の自由が認められていた。そのため、多くのカルヴァン派の人々がフランスへ移住した。豊富な資金をもとにフランスは、プロテスタントを支援し、オーストリア=ハプスブルク家の弱体化を狙った。そして、最終的にはフランスもオーストリア=ハプスブルク家へ侵攻した。