第一次世界大戦(1910年代)

(前史)帝国主義の時代

  ヨーロッパは、

バルカン問題

バルカン情勢

イギリス陣営(三国協商)ドイツ陣営(三国同盟)
フランス
ロシア
オーストリア
×イタリア

青年トルコ革命

 05年、日本が日露戦争に勝利。オスマン帝国の若き将校たちは、日本のような議会が必要であることを認識。08年、青年トルコ革命が起こる。

 オスマン帝国の混乱によって、周辺諸国が侵攻してきた。08年オーストリアは、ボスニアヘルツェゴビナを併合。隣国のセルビアはこれに激怒。

 12年、ロシアは、オーストリアのバルカン進出に対抗するため、セルビアなどのバルカン諸国でバルカン同盟を結成。

 同12年、イタリアはリビアへ侵攻。(イタリア=トルコ戦争)。これをきっかけに、70年代のベルリン会議から始まったチュニジア問題が解決。フランスとイタリアの関係が改善した。

 これをきっかけにバルカン同盟(バルカン諸国)は、ベルリン会議で返還したマケドニアに侵攻。第1次バルカン戦争。翌13年に勝利。

 今度は、マケドニアの分割をめぐり、ブルガリアとセルビアが対立。第2次バルカン戦争が勃発。ブルガリアはバルカン同盟を離脱。ドイツ陣営に就いた。

 このように、1910年代前半のバルカン半島では、さまざまな紛争が起こった。そのため、バルカン半島は、ヨーロッパの火薬庫と呼ばれた。

第一次世界大戦

勃発

 舞台は、セルビアの南のマケドニアから、北のボスニアヘルツェゴビナに移る。

 ボスニアヘルツェゴビナは、08年にオーストリアに併合された。この地域にはセルビア人が多く住んでいる。

 14年6月、ボスニアの州都サラエボで、オーストリア帝位後継者をセルビア人が暗殺した。オーストリア、ドイツがセルビアに宣戦。これに対し、ロシアがセルビア支援を表明。イギリス、フランスがこれに追随。こうして第一次世界大戦は始まった。

  • 日本 → 日英同盟により、イギリス陣営で即時参戦
  • オスマン帝国・ブルガリア
     → バルカン戦争の流れから、ドイツ陣営で参戦
  • イタリア
     → 中立の立場をとる。その後、イギリスとの密約でイギリス陣営で参戦。
  • アメリカ
     → 中立の立場をとるが、終盤にイギリス陣営で参戦。
  • 第2インターナショナル(社会主義勢力)
     → 各国の社会主義勢力が自国政府を支持し、事実上解体された。

戦局

 ドイツは、フランスをたたいてから強国ロシアに向かうシナリオを考えていた。ドイツ軍は、防衛力の高いフランス国境ではなく、中立国ベルギーを通過してフランスへ侵攻。しかし、9月のマルヌの戦いでドイツ軍の進軍が止まった。西部戦線(vsフランス)は、硬直した。

 一方、対ロシア戦は、8月にタンネンベルグの戦いに勝利。しかし、広大な領土と厳しい冬の寒さで決着の見通しが立たなかった。

 戦争では、航空機・毒ガス・戦車などの新兵器が投入された。戦争は2年以上にわたる長期戦になった。イギリス陣営は海軍力を使って、ドイツの経済封鎖を実施。ドイツもイギリス・フランスの通商路を潜水艦で攻撃。17年、ドイツの潜水艦がアメリカ商船を攻撃。これによりアメリカはドイツに宣戦した。

秘密外交

 ドイツ陣営も、イギリス陣営も、中立国の味方に引き入れるために、秘密条約を締結した。この内容は、戦後の敵領土や植民地の分配などであった。

 イタリアは、未回収のイタリアを見返りにイギリス陣営で参戦。また、イギリスはパレスチナで三枚舌外交を展開した。

総力戦

 長期戦になるにつれて、各国は総力戦体制を構築した。女性や青少年が軍需工場へ動員。国民の消費生活も統制された。

 イギリスやフランスは、植民地から資金や物資、兵力を調達。緩やかな統制で済んだ。しかし、ドイツやロシアは厳しい経済統制を行った。

革命

 厳しい統制経済は、国民を疲弊させた。ドイツやロシアではストライキなどが多発した。それ以外の国でも、統制経済の見返りに参政権の拡大を約束させられた。

 18年3月、ロシア革命でロシアが戦線離脱。ドイツは全兵力をフランスへ向けた。8月にイギリス陣営の反攻が始まる。秋にブルガリアとオスマン帝国が降伏。10月、ドイツも胸腺交渉を開始。11月、キール軍港の蜂起。ドイツ革命が始まる。ドイツ皇帝はオランダへ亡命。ドイツ共和国政府は、休戦協定を締結した。

大戦の結果

 ヨーロッパ諸国は、秘密外交を展開していた。しかし、ソ連やアメリカが新しい国際秩序を提唱した。(ソ連の平和に対する布告、ウィルソン大統領の平和十四か条)。人々の期待を集めた。

 また、経済統制は、参政権の拡大につながった。これが20年代の普通選挙につながる。さらに、この経済統制が、30年代の公共事業やファシズムにつながる。

 アジア・アフリカ地域では、独立機運が高まった。

ロシア革命

ロシア革命

 第一次世界大戦によって、ロシア国民は厳しい経済統制を受けた。

 16年夏、中央アジアの諸民族が放棄。

 17年3月、首都ベオグラードで大規模なストライキ。各地へ広がった。労働者や兵士はソヴィエト(自治組織)を結成した。ロシア皇帝のニコライ2世が退位。立憲民主党などによる臨時政府が樹立された。これが二月革命という。

 臨時政府は、普通選挙による議会を招集するも、戦争を継続した。一方で、自治組織ソヴィエトも存続した。

 17年4月、ドイツ政府は、スイスに亡命中のレーニンをロシアへ帰国させた。レーニン率いるボリシェビキは、ケレンスキー首相の臨時政府と対立。

 17年9月、レーニンらは武装蜂起。臨時政府を倒した。平和に対する布告と土地に対する布告を発表。これが十月革命である。 

ソヴィエト政権と戦時共産主義

 18年3月、ドイツと単独講和。

 国内では、ボリシェビキは共産党と改称。首都をモスクワに移された。ソヴィエトは、共産党の一党支配になった。土地を無償で国有化された。

 レーニンは、第一次世界大戦で解体された第2次インターナショナルにかわり、第3次インターナショナル(コミンテルン)を創設。各国の共産党を支援した。しかし、ほかの国での社会主義革命は起こらなかった。

 旧帝政派の軍人やボリシェビキ以外の政党は、各地に反革命政府を樹立。イギリスなどの連合国は反革命政府を援助した。これが対ソ干渉戦争である。ソヴィエトは赤軍を結成にこれを抵抗。20年には反革命政権はほぼ制圧された。この戦争中、ソ連は戦時共産主義を実施した。

ソ連の成立

 対ソ干渉戦争が終わると、共産党一党支配への反抗が始まった。レーニンらは、国有化を緩めた。これが新経済政策(ネップ)である。22年12月、日本軍がソ連から撤退。ソ連が結成された。