1860年代のポーランド 農奴解放令と1月蜂起

1870年代のポーランド

70年代のポーランド。ポーランド王国は存在していたが、国王は、ロシア皇帝が兼任。ロシアの支配下にあった。

 東では、ビスマルク宰相によって、ドイツ帝国が成立。ポーランドは、ドイツとポーランドの緩衝地帯の役割を果たした。

1860年代の国際情勢

 日本は、明治時代。明治新政府がさまざまな政策を実施していた。また、士族反乱も多かった。西郷隆盛の西南戦争がおきたのもこの時代である。

中国は、清王朝末期。太平天国の乱が起きていた頃である。

 ヨーロッパでは、ドイツ帝国が成立。ビスマルク体制が成立した。

1月蜂起

概要

 63年1月、ポーランド民族主義者によって臨時国民政府が成立。1月蜂起が始まった。翌64年4月にようやく鎮圧された。

きっかけ)農奴解放令

 1月蜂起のきっかけは、ロシアの「農奴解放令」である。

 クリミア戦争でイギリス・フランス連合軍に敗北したロシアのアレクサンドル2世は、61年に「農奴解放令」を出し、近代化政策を進めようとした。

臨時国民政府の農奴解放令

 ポーランド臨時政府は、ポーランド版の「農奴解放令」を打ち出した。

 政府が地主から土地を買い上げ、農民に無償で土地を与えた。

反動政治

 64年4月に1月蜂起が鎮圧されると、関係者は処刑やシベリア送りになった。

 ロシア皇帝アレキサンドル2世は、ポーランド王国を存続させたが、自治権を剥奪した。ロシア語の強制が行われた。

 ロシア語の強制は、ポーランド市民の愛国心に火をつけた。

周辺国の状況

ナポレオン3世は援軍を送らず

 臨時国民政府には思惑があったフランスのナポレオン3世の援軍である。しかし、ナポレオン3世は、ロシアとの会見修復のため、援軍を送ることはなかった。

 また、北欧のスウェーデンが援軍を送ろうとした。しかし、63年2月に始まったデンマーク戦争の影響で援軍を送ることはできなかった。

ビスマルクとデンマーク戦争

 一方、ロシアも期待した援軍を得られなかった。63年2月にデンマーク戦争が発生。オーストリアは、プロイセン公国とともにデンマークへ侵攻した。

南北戦争と綿花の高騰

 では、なぜナポレオン3世率いるフランスやイギリスは、クリミア戦争には介入したにも関わらず、1月蜂起には介入しなかったのであろうか。

 ナポレオン3世は、メキシコ出兵に兵を回したからである。60年にアメリカで南北戦争が勃発。ナポレオン3世は、この混乱に乗じてメキシコ出兵を実施した。

 また、イギリスの関心も代わっていた。60年の南北戦争の影響で、アメリカ産綿花の供給が止まる。新たな綿花の供給地とし、オスマン帝国から事実上独立したエジプトへの関心を高めていた。

 ロシア帝国は、これを鎮圧。ポーランドへの反動政治が始まった。

第一インターナショナル

 ポーランドの1月蜂起は、64年4月に弾圧された。しかし、この弾圧は社会主義者に火をつけた。

 64年9月、マルクスを中心に国際的社会主義団体である第一インターナショナルが結成される。 第1回の会合は、ロンドンで開催された。