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はじめまして、sekaishiotakuです。2年前からはてなブログで世界史のブログを行っていました。このサイトでは、各国史を10年単位、100年単位で区切って投稿しております。

まだ、元のフォーマットが残っている個所も多くて申し訳ありません。徐々に直していきます。

毎日投稿しておりますので、是非毎日ご覧ください。

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1960年代の衆院選 高度成長期と池田佐藤政権

69年12月 テレビの時代

政見放送の開始

 この選挙から政見放送が開始された。

自民党 田中軍団(田中チルドレン)

 自民党はこの選挙で16議席を増やし過半数を維持した。特にこの選挙で初当選したものが33名もいた。田中幹事長のもとで田中軍団を結成しした。これが72年の田中派結成につながる。この田中軍団の中には、小沢一郎氏や羽田孜氏など後の90年代前半の竹下七奉行のうち、5人がこの選挙で初当選している。

 また、00年に首相になる森喜朗氏もこの選挙で当選している。しかし、田中幹事長から後任を得られず、無派閥で当選。当選後に追加公認で自民党議員になった。この時にお世話になったのが岸元首相であった。

 また。佐藤首相は、70年で総裁任期が満了だったが、任期延長で72年まで総裁を続けることになった。

社会党 学生運動の影響で敗退

 社会党は、この選挙で44議席を減らす大敗をした。

 その原因は2つある。一つは、60年代後半の学生運動である。過激化した学生運動と機動隊との戦いを見て多くの人が脅威を感じた。69年1月の東大安田講堂事件はその象徴であった。もう一つは68年のプラハの春である。自由化を目指すチェコスロバキアに東側諸国が武力介入する様子に、怒りを感じた。

 なお、この選挙で土井たか子氏と横路孝弘氏が初当選ししている。

公明党と民社党

 公明党は22議席増の47議席を獲得。民社党は現状維持の31議席であった。

共産党 70年安保闘争で躍進

 共産党は、70年安保闘争で10議席増やした。不破氏はこの選挙で初当選している。

67年01月 黒い霧解散

黒い霧

 66年後半、自民党の不祥事事件が相次ぐ。この一連の不祥事は「黒い霧」と呼ばれた。

 66年12月、佐藤首相が総裁選でかろうじて再選。内閣改造で大蔵官僚の宮澤喜一氏を起用。これにより、旧池田派(大平派)を味方につけた。さらに、幹事長を佐藤派の田中角栄氏から岸派の福田赳夫氏に変えた。

 12月に衆議院を解散。1月に総選挙が行われた。

自民党 安定多数を維持

 自民党はこの選挙で敗北が予測されていた。しかし。1議席減ですみ。安定多数を維持した。宮澤喜一氏がこの時に初当選。河野洋平氏(河野太郎氏の父)や塩川正十郎氏(塩じいこと小泉政権期の財務大臣)もこの選挙で初当選している。

社会党 議席を伸ばせず

 黒い霧で自民党に逆風が吹く中での選挙にもかかわらず、社会党は1議席減の140議席となった。

民社党 躍進

 民社党は7議席増の30議席を確保した。

公明党 初進出

 宗教組織の創価学会は公明党を結成。この選挙から出馬した。

 初回の選挙で25議席を確保した。民社党の躍進とともに、野党の多党化が鮮明になった選挙であった。

共産党

  共産党は、この選挙では現状維持の5議席であった。

63年11月 オリンピック前選挙

高度成長とオリンピック

 この時代、日本は高度成長を実施していた。実現不可能と思われた「所得倍増計画」も成功した。そして、翌64年に東京オリンピックを控えている中で総選挙に踏み切った。

 しかし、選挙戦が始まると労働災害事故が発生。暗雲が立ち込める。

 なお、この選挙までは、投票日が平日であった。

自民党 安定多数を引き続き確保

 自民党は、この選挙で6議席減らすも、安定多数を引き続き海保した。

これにより、池田政権の継続が決定した。しかし、体調不良で東京オリンピックを病床で見ることに、64年の総裁選には不出馬。佐藤政権へ移行する。

社会党 現状維持

 社会党は、1議席減の144議席になった。

民社党 解党を回避

 民社党は前回の選挙で大幅に議席を減らしていた。今回の選挙で議席を減らすと回答の危機にあった。

 結果、6議席増の23議席を確保。民社党は存続した。

共産党 順調に議席を伸ばす

 共産党は、順調に議席を伸ばし5議席になった。

60年11月 外交よりも経済

安保闘争で岸首相が退陣

 60年は、安保闘争の真っただ中にあった。60年7月、岸首相は安保改定を実現し退陣した。跡を継いだのが池田首相である。

自民党 所得倍増計画

 10月、池田首相は、衆議院を解散した。ここで秘策を出した。「所得倍増計画」である。これにより、選挙の争点は安保から経済政策に変わった。

 これにより、13議席増やし296議席を確保した。

社会党 安保闘争で議席を増やす

民社党の結党で、議席を大きく失った。しかし、60年安保の影響で23議席増やし、145議席となった。

民社党 壊滅的敗北

 59年10月、参院選の敗北と60年安保闘争の方針(共産党との連携)で旧社会党右派の一部の議員が社会党を離党し、民社党を結党した。

想定支持層は、低所得で共産主義に抵抗がある人たちであった。

 池田首相の「所得倍増計画」は低所得者の心に響いた。そのため、この選挙で23議席減の17議席になった。

共産党 順調に議席を伸ばす

 共産党は、十町に議席を伸ばし、3議席を確保した。

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1980年代前半の衆院選 ロッキード事件と中曽根政権

83年12月 ロッキード事件判決選挙

中曽根政権

 80年のハプニング解散で自民党が勝利。鈴木首相が誕生した。

 82年11月、中曽根政権が誕生した。

ロッキード事件判決

 83年7月、中曽根政権は、高支持率を背景に衆参同日選挙を行うものと思われた。しかし、これを避けた。

 83年10月、ロッキード事件の第一審判決が出た。有罪で実刑判決

河野氏の新自由クラブとの連立

 中曽根首相は、衆院選で敗北。追加公認で何とか過半数を確保した。しかし、安定多数を確保することができなかった。そのため、河野洋平氏らの新自由クラブと連立政権を組んだ。

 安定多数とは、すべての委員会で過半数を取れる議席数である。各委員会で過半数を確保することで議会運営が容易になる。(委員会とは、本会議前に法案等を審議する場所。通常委員会で可決されないと本会議で審議されない。)

新自由クラブとは、

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1970年代の衆院選 派閥全盛期の衆院選

80年06月 ハプニング解散

40日抗争とハプニング解散

 79年10月、衆院選で自民党は過半数割れの大敗。反主流派の福田派らは大平首相の退陣を要求した。しかし、大平首相はこれを拒否した。

 自民党は、首相候補を一本化できずばらばらに投票することになった。最終的には、大平首相が選出された。

ハプニング解散

 80年5月、社会党ら野党は内閣不信任案を提出。追加公認で自民党は過半数を確保しているので否決されるはずであった。しかし、福田派らの自民党反主流派が欠席。内閣不信任案が可決。大平首相は、衆参同日選挙へ踏み切った。

大平首相、憤死

 6月、衆院選の選挙活動中に大平首相は心不全で亡くなった。自民党は、大平首相の弔い合戦で共闘体制が構築された。

自民党大勝

 自民党は大勝。単独で安定多数を確保した。これによって保革伯仲国会は終了した。次期首相には。大平派の鈴木氏が就いた。

野党の結果

社会党は、現状の議席数を確保した。

大幅に議席を減らしたのは、公明党、民社党、共産党であった。

 一方、河野洋平の新自由クラブは議席を増やした。

79年10月 40日抗争へ

大福密約

 78年総裁選。大福密約で大平首相が選出されるはずであった。しかし、福田首相は高支持率を背景に総裁選へ出馬した。結果、田中派の支持を受けた大平氏が勝利。大平政権が誕生した。

大平首相と消費税

 経済では田園都市構想で景気回復を図ろうとした。一方で、外交政策では、福田政権の全方位外交を転換。親米路線をとった。それ一例がモスクワオリンピックのボイコットである。元号法を成立させて、元号に法的根拠を与えた。

 79年10月に総選挙へ踏み切った。大平首相は公約に消費税の導入を挙げようとした。しかし、これは取り下げられた。

40日抗争へ

 自民党は、大敗した前回選挙からさらに1議席減らした。追加公認でかろうじて過半数を維持した。

 ロッキード事件の余波に加え、大平首相の消費税導入発言が問題視された。

 大平首相はこの選挙を勝利として続投に意欲を燃やした。しかし、福田元首相らは退陣を求めた。これにより四十日公行層が勃発した。

野党の結果

 社会党は10議席を減らし、野党の分裂はさらに促進された。

 共産党が多きに躍進、議席を倍増させた。

 公明党と民社党も議席を増やした。

 一方、新自由クラブは壊滅的な敗北で4議席になった。

76年12月 ロッキード事件

三木政権とロッキード事件

 74年、金脈スキャンダルで田中角栄首相が退陣。反田中派の福田赳夫氏と親田中派の大平正芳氏が対立した。そこで中間派の三木武夫氏が折衷案で首相になった。

 三木首相は、金脈スキャンダルを受けて政治改革を断行しようとしたが田中派などの反主流派の反発で実行できなかった。

 この時代、田中首相の列島改造論で財政が肥大化。歳出削減が急務であった。しかし、オイルショックで物価が高騰。歳出削減が進まず。この頃から赤字国債の発行が常態化した。

 三木首相は、早期に解散総選挙へ踏み切りたかった。しかしそれができなくなった。それが76年2月のロッキード事件である。これは、アメリカで発覚した田中前首相の収賄事件である。

三木おろしで解散できず

 三木首相はロッキード事件を徹底追及を行うことを国民に約束した。田中派に脅威を与えた。田中派は、福田派を味方につけて、三木首相の退陣を試みた。

新自由クラブ

 76年6月、自民党のロッキード事件への対応に反発。河野洋平氏らが自民党を離党して新自由クラブを結党した。

 7月、田中前首相が逮捕。翌8月に保釈される。

 9月、三木首相は閣議で解散を実行しようとした。しかし、閣僚の大部分が反対した。罷免して解散をすることもできたが、三木首相は政治理念に反するとしてこれを行わなかった。

 任期切れにより、12月に総選挙が実施された。

自民党大敗 保革伯仲国会で福田政権へ

 自民党は、過半数割れの大敗を喫した。(追加公認でかろうじて過半数を確保)。三木首相は、責任を取り辞任。大福密約で、福田政権が誕生した。

社会党躍進

 社会党は、ロッキード事件への批判票で大きく議席を伸ばした。しかし、政権を奪うほどの大勝はできなかった。その理由は、反自民の票の一部が公明党、民社党と新自由クラブへ流れたためである。

新自由クラブ 3倍の大躍進

 新自由クラブは、自民党にも社会党にも入れたくない人の支持を大きく集めた。これにより、議席を3倍にする大勝をした。

共産党敗北

 共産党は半数以上の議席を失い、17議席になった。

民社党・公明党 躍進

 公明党と民社党は、躍進。特に公明党は50議席を獲得した。

72年12月 角栄フィーバー

選挙は日曜日

 この選挙から、日曜日に選挙が行われるようになった。また、沖縄返還で定数が増加した。

角栄フィーバー

 72年5月、佐藤派の大部分の議員を引き抜き田中派を結成。6月、「日本列島改造論」を発表。翌7月の総裁選で福田赳夫氏を破り首相になった。

 9月、日米首脳会談後に、中華人民共和国を訪れる。日中公国交正常化を実現。

 12月、解散に踏み切った。

自民党勝利

 自民党は過半数を確保。しかし、前回の選挙から26議席を減らした。

 田中角栄首相は、

社会党躍進

 社会党は議席を3桁にもどした。当時の社会党は、極左の共産党と共闘しようとするグループと、中道左派の民社党、公明党と共闘しようとするグループが対立していた。この選挙で民社党、公明党が不振。共産党と共闘費用とするグループの発言力が高まった。

共産党躍進

 日中国交正常化で、中国共産党の悪いイメージが払しょくされた。その結果、議席を大きく伸ばし38議席を確保した。

公明党、民社党は不振

 議席を大きく落としたは、中道左派の民社党と公明党であった。特に公明党は言論出版妨害事件でイメージが悪化していた。

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1980年代後半の衆院選 なぜ55年体制は終わったのか?

90年02月 それでも自民党を支持しますか?

平成最初の選挙

 89年1月、昭和天皇が崩御。昭和が終わり平成が始まった。この選挙は平成最初の選挙となった。

 当時の経済は、バブル経済の全盛期。人々はうかれていた。しかし、昭和天皇の崩御で一気に自粛モードになった。

竹下政権とリクルート事件

 87年11月、5年にわたる中曽根長期政権が総裁任期満了で退陣。竹下政権が成立した。

89年参院選に敗北

 89年、竹下政権は3つの原因で支持率を落とす。

  • 4月の消費税導入
  • リクルート事件の発覚
  • 牛肉オレンジ自由化で農家が反発。

 89年6月、都議選と参院選に勝利をするため、クリーンのイメージのある外相の宇野氏に政権を譲った。しかし、就任直後に女性スキャンダル。自民党のイメージをさらに落とした。

 89年7月の都議選、参院選で、マドンナ旋風の土井たか子社会党に惨敗。宇野首相は退陣した。

 参院の大敗で、自民党は参院で過半数割れ。ねじれ国会が始まる。

海部首相とねじれ国会

 89年8月、総裁選で海部総裁が誕生。衆議院の優越で海部首相が誕生した。

 海部首相の最初の課題は、衆院選に勝利することであった。ン期満了まで残り10月であった。そして、89年02月に

自民党勝利でも海部おろし

 自民党は、20議席減らしたものの過半数を維持。自民党は勝利した。その要因は以下のように考えられる。

  • 幹部の一新でリクルート事件のイメージを払拭。
  • 89年12月に日経平均が史上最高値の4万円近くまで上昇、これにより、消費税反対派が減少した。
  • 89年12月のソ連の崩壊で、社会党などの左派政党にネガティブなイメージを持つ人が多かった。

 この選挙で、岡田克也氏(後の民主党幹部)や福田康夫氏(のちの首相)が初当選している。

社会党 マドンナ旋風で議席を増やす

 社会党は、マドンナ旋風が続いていた。53議席増の大勝した。本来は、自民党を過半数割れまで追い込みたかったが候補者を擁立することができなかった。その理由は中選挙区制で現職議員が新人の出馬に抵抗を示したためである。

 この選挙では、09年の民主党政権で幹部になる人が多数初当選をしている。輿石氏や仙谷氏などである。

公明党 議席を大幅減

 社会党の議席の減少は、公明党や民社党、共産党から奪った議席が半分以上であった。特に民社党や共産党は半分近く議席を失った。

86年7月 死んだふり解散

昭和最後の選挙

中曽根政権

 中曽根首相は、83年総選挙で大敗。ほかの派閥に配慮した政治を行う必要があった。政治思想が違う人も閣僚に迎えた。

 しかし、戦後政治の総決算として、戦前の内務省の復活ともいえる総務庁の設置。靖国神社の公式参拝を実施した。さらにJTやJR、NTTの民営化を実施。

 ロッキード事件のイメージを払拭。自民党の支持率が上昇した。

死んだふり解散

 86年初頭の中曽根政権は高い支持率を持っていた。一方で、前回選挙の敗北で河野洋平氏の新自由クラブとの連立を余儀なくされていた。中曽根首相は86年7月に衆参同日選挙を画策していた。

 しかし、そこには問題があった。一票の格差問題である。前85年に違憲判決が出ていた。

 社会党などの野党は、解散の口実を与えないように、公職選挙法改正に協力的な姿勢を示した。その結果、86年5月、公職選挙法を改正。一票の格差問題が解決。

 そして、中曽根首相は衆参同日選挙に踏み切った。

自民党大勝 総裁任期の延長へ

 自民党は300議席の大勝。これをうけて、86年9月で満了の総裁任期を1年延ばし87年9月までとした。

 今選挙では、石破茂氏、武部勉氏(郵政選挙時の幹事長)、93年選挙でさきがけを作る武村氏と鳩山氏が初当選した。

 河野洋平氏の新自由クラブは、この選挙結果を受けて自民党へ合流した。

社会党惨敗 土井たか子委員長へ

 一方、社会党は、この選挙で大敗。土井たか子委員長が誕生。ここからマドンナ旋風が始まる。

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90年代の衆院選 55年体制から自公政権へ

 90年代の政界は激動の時代であった。93年に55年体制が崩壊。非自民政権が成立。その後、自社さ政権を経て、99年に自公政権が成立。現在の政治構造が固まった。

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閣僚とは⑤ 内閣府特命大臣とは

内閣府特命大臣とは

 内閣府に所属して特定のテーマを担当する大臣。主として内閣府の下の組織の長になることが多い。また、ほかの国務大臣が兼務することもある。

内閣府とは

 内閣府は、省庁の一つで、複数の省庁にまたがる問題を調整する。トップは内閣総理大臣であるが、実務でのトップは、官房長官である。01年の橋本行革で誕生した。

必須の4閣僚

 内閣特命担当大臣は、原則首相が自由に決められるが、法律で4つの特命大臣を置くことが決まっている。

沖縄及び北方対策担当

 沖縄政策と北方領土問題を担当する大臣。

金融担当

 00年に大蔵省から分離した金融機関の監督業務を行う大臣。現在は財務大臣が兼務することが多い。

消費者および食品安全担当

 00年代から、牛肉のBSE問題などの食の安全に関する問題が表面化した。これを受けて、01年に食品安全担当をもうけた。

 福田政権時に、消費者問題を担当する消費者問題担当大臣を設置した。これを担当したのが岸田氏である。主たる仕事が各省庁でバラバラになっている消費者問題の一元化である。

 麻生政権時、消費者庁が設置。これに尽力したのが岸田氏とそれを引き継いだ野田氏であった。

少子化対策担当

 07年の第一次安倍政権時に、初めて設置。当初は女性閣僚が就いていたが、のちに男性閣僚も付くようになった。15年に設置が義務化された。

その他の特命大臣

経済安全保障担当大臣

 岸田内閣で初めて設置された大臣。それまでは経済財政政策担当大臣と呼ばれていた。

 経済財政政策担当大臣は、経済財政諮問会議を運営する。この会議は、内閣の経済政策の方針を決める会議である。この会議は総理大臣を議長とし、閣僚としては、経済財政担当大臣のほかに、官房長官、財政大臣、総務大臣(地方財政、地方税)、経済産業大臣が参加。そのほかに日銀総裁と学者2名、実業家2名が参加する。

 09年の民主党政権時に、これを閉じて国家戦略室を設置した。

 12年の政権交代で安倍政権が成立すると、従来の形に戻した。

 21年、岸田政権は、経済財政政策担当大臣を経済安全保障担当大臣に変えた。これは中国からの経済制裁に耐えられるようにするためである。経済政策に安全保障の概念を加えた。

男女共同参画担当

 99年に成立した男女共同参画法に基づいて設置。現在は少子化担当大臣を兼務している野田氏が兼務している。

 

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閣僚とは④ 新しい省庁

防衛大臣

 自衛隊の管理運営をを行う防衛省を所管。54年に防衛庁を設置。07年の第一次安倍政権で防衛省に昇格した。

 おな、自衛隊の最高指揮監督権は、防衛大臣ではなく内閣総理大臣が持つ。

環境大臣

 環境行政を司る環境省を所管。公害が政治問題化した71年に環境庁は設置された。01年の橋本行革で環境省に昇格した。

 公害防止と自然環境の保護が主な業務である。皇居外苑などの環境管理。原発事故への対応。温室効果ガス排出の抑制などを行っている。

 このポジションには、若手で発信力のある政治家が就くことが多い。小泉政権では小池環境大臣がクールビズを進めた。安倍政権では小泉進次郎氏が環境大臣を務めている。

復興大臣

 11年の東日本大震災の復興のために、11年12月に野田政権が設置した省庁である。10年間(21年まで)の期限付きの省庁であったが、10年の延長が決まり、31年までの延長が決まっている。

デジタル大臣

 20年にコロナが発生。デジタル化の遅れで給付金の支給が著しく時間がかかった。そのため、菅政権はデジタル化の促進のために、20年にデジタル庁を設置した。

 主な役割は、デジタル化の遅れの要因になっている規制の緩和である。その中で最も大きな業務はマイナンバーの普及であった。

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閣僚とは③ 5文字省庁の大臣

働き方改革 厚生労働大臣

 社会保障と労働行政を司る厚生労働省を管轄。01年の橋本行革以前は、厚生省と労働省に分かれていた。この時代、厚生大臣は公明党議員が務めていた。

 コロナなどどの感染症対策。ワクチンなどの医薬品の許認可。働き方改革などの労働政策を実施。現在、最も過酷な大臣といわれている。もっとも働き方改革が必要な大臣といわれている。

 この過酷さがワクチン供給の遅れになったといわれた。そのため、ことらな対策では内閣府特命担当大臣がサポートに回った。西村経済再生大臣がコロナ対策担当を、河野行革大臣がワクチン担当を兼務した。

 余談だが、麻薬取締官は厚生労働省の職員である。

文部科学大臣

 教育行政を司る文部科学省を所管。01年の橋本行革前は、文部大臣と科学技術庁長官に分かれていた。なお、内閣府には総合科学技術会議があり、科学技術政策は内閣府特命大臣(科学技術担当)が行う。

 下部組織には、スポーツ庁と文化庁がある。文化庁は、文化遺産の選定や宗教政策なども行う。

農林水産大臣

 農林水産省を所管。自民党は多くの農業団体に支えられている。そのため自民党にとって重要なポストである。現在はWTOの貿易交渉でタフな交渉術が求められる。

 不祥事を起こす大臣が多いポストとして有名で、呪われたポストといわれている。

経済産業大臣

 産業政策を司る経済産業省を所管する大臣。01年の橋本行革以前は通商産業大臣とばれた。

 経済産業大臣の最大の仕事は、企業の支援である。高度成長期は補助金や許認可権を通じて企業の支援を行っていたが、70年代の安定成長期以降は、政策提言で経済支援を行うようになった。また、貿易の自由化交渉を行うのも農林水産大臣と経済産業大臣である。

国土交通大臣

 建設行政や交通行政を司る国土交通省を所管する大臣。慣例として公明党議員が務めている。01年の橋本行革以前は、建設大臣、運輸大臣などに分かれていた。

 下部組織には、気象庁や観光庁などがある。再開が予定されているGoToトラベルキャンペーンも国土交通大臣が担当している。

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閣僚とは② 主要4閣僚

 昨日4日、岸田新首相が誕生。その日のうちに組閣が完了しました。今回は、閣僚のうち、重要な4閣僚を見ていきます。

財務大臣

 国の収入と支出を管理する財務省を統括する大臣。その最大の業務は予算の策定である。また、税金も財務省の管轄で、下部組織に国税庁がある。

 01年の橋本行革以前は、大蔵大臣と呼ばれ金融機関の監督も担当していた。しかし、金融機関の監督については内閣特命大臣(金融担当)が担っている。なお、麻生財務大臣は、内閣府担当大臣(金融担当)も兼任している。

法務大臣

 法務省を所管。

 検察を統括。すなわち、指揮権を発動して個々の事件の取り調べや処分に関与することができる。過去にも、指揮権を発動して政治家の収賄事件の捜査に涵養したことがあった。

 国家賠償訴訟では国を代表する。

 出入国を発行し、外国人の在留許可を与える。

 死刑の執行命令を発する。

外務大臣

 外交を司る外務省を統括する大臣。1880年代に内閣制度ができてから一度も名称を変更していない唯一の大臣色である。

 その主たる業務は、条約締結などの外国政府や国際機関との交渉である。そのため、外務大臣はタフな交渉力が求められる。

 そのほかにもパスポート(旅券)やビザの発行。外国にいる日本人の保護などの業務を行っている。

 岸田首相は、歴代最長の外務大臣経験を持つ。オバマ大統領の広島訪問を実現したのも岸田外相の時代である。

総務大臣

 もともとは総務庁長官であったが、01年の橋本行革で自治省と郵政省と統合。総務大臣に昇格した。

 総務庁は、80年代の中曽根政権時代に設置。国勢調査などの統計業務や各行政機関の観察などを行った。

 自治省は、地方行政を管轄する所長であった。そのため、総務省は、地方税、選挙管理、防災などを監督する。なお、宝くじなどの公営ギャンブルも総務省の管轄である。最近では、マイナンバーの発行で注目を浴びている。

 郵政省は、郵便局の統括だけでなく、通信全般を取り扱う。TV局やラジオ局の許認可権を持つ。また、携帯電話も総務省の管轄である。

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閣僚とは

 本日4日、岸田内閣が成立しました。今回から、5回にわたって、閣僚についてまとめていきます。

組閣とは

 組閣とは、総理大臣が閣僚を選ぶ作業である。内閣総理大臣は、閣僚を指名する権利と罷免する権利があります。

閣僚とは

 閣僚は、法律上は国務大臣と表現されている。閣僚の仕事は主として2つある。

  • 管轄の省庁を指揮する。
  • 閣議に参加する。

 閣議とは、内閣の最高意思決定機関である。法案提出や予算の提出、国会の召集や解散はここで決定される。

 全会一致の原則をする。そのため、閣僚が一人でも反対したら否決される。小泉政権の郵政解散では、反対する閣僚がいた。そのため、その閣僚をその場で罷免して閣議決定した。

 また、法律の範囲内で政令を出すこともできる。ちなみに内閣府令や省令は大臣が独自に決済して発令する。

副総理

 国務大臣のトップで、内閣のNo2.法律上の正式な役職ではない。なお、内閣法では、総理大臣にもしものことがあった場合の代行順位をあらかじめ定めることになっている。しかし、実際に利用されてことはない。

官房長官

 総理の女房役といわれるポジション。首相候補者の登竜門的なポジションといわれる。

 内閣の補助機関として以下の業務を行う。

  • 各省庁の調整
    • 文部省の管轄する幼稚園と厚生労働省の管轄する保育園のちょうせいなどの複数の省庁にまたがる問題を調整する。
  • 国会や会派(政党など)との調整
  • 政府報道官
  • 内閣府の事務の総括
    • ただし、内閣府特命大臣が扱うものを除く

 報道では、政府首脳と表現されることもある。なお、官房長官の執務室は、総理官邸内にある。