60年代の自民党 高度成長と東京オリンピック

佐藤首相

吉田首相と池田首相

 佐藤首相は、日露戦争前の1901年に山口県の岸家に生まれた。兄は気に岸元首相である。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業。卒業後は、官僚にならず、民間企業に就職した。

 その後、鉄道省に入省。佐藤家の婿養子になる。

 48年、吉田内閣の官房長官に就任。翌49年に初当選。吉田自由党の幹事長になる。

沖縄返還

 佐藤首相は、沖縄返還に意欲を燃やしていた。69年にニクソン大統領が登場するとこれが現実味を帯び始めた。

非核三原則とノーベル平和賞

 佐藤氏が総裁になった64年10月、中国が核実験に成功した。日本は核の危機にさらされるようになった。翌65年1月に日米首脳会談。ジョンソン大統領は、日本の核保有を否定し、日本が核攻撃を受けたときは、日米安保条約に基づいて核兵器を持って報復すると約束した。『核の傘』の確約である。

 67年12月の衆議院予算委員会で、非核三原則を表明。佐藤首相はこれにより佐藤首相は、のちにノーベル平和賞を受賞する。

長期政権の理由① 高度成長

 就任時の64年、日本はオリンピック後の不景気に見舞われた。翌65年、山一證券が経営難。証券不況になった。佐藤政権は赤字国債を発行。この難局を乗り越えた。

 その後、日本は空前の好景気に入る。これは、74年の石油危機まで続いた。この好景気はいざなき景気と呼ばれた。

 このころ、自民党はスキャンダル報道がつづいた。あまりに多いスキャンダルに黒い霧と呼ばれた。66年12月、自民党の幹事長を実業家の田中氏から、官僚出身の福田氏に変えた。これにより、佐藤首相と田中幹事長の間に亀裂が生まれた。これが72年の田中派結成につながる。

66年12月、自民党に逆風が吹く中で衆議院を解散。自民党は議席を減らしたが、微減で済んだ。

長期政権の理由② 党人派の政治家たちの死去

 50年代から60年代前半は、2つの派閥が争っていた。党人派と官僚派である。党人派は、戦前から政治家だった人たちである。その代表が鳩山元首相である。一方、官僚派は、高級官僚出身の政治家である。

 60年代半ば、河野一郎氏や大野伴睦氏など党人派の大物政治家が死去。若い高級官僚であった官僚派主導の時代になった。

 佐藤首相は、人事の佐藤ともいわれた。次世代を担う田中氏、福田氏、大平氏を登用し、互いに競わせた。一方で、党人派の若手、三木氏や中曽根氏を登用した。この佐藤氏の閣僚人事戦略が70年代の派閥政治につながる。

 

池田首相

吉田首相と池田首相

 池田首相は、日清戦争後の1899年に広島県で生まれた。京都大学卒業後、大蔵省に入省した。当時の大蔵省は、東京帝国大学(現在の東京大学)卒の学閥があり、なかなか出世できなかった。

 戦後は、閣僚として吉田首相に仕えた。佐藤首相とともに吉田学校の門下生となった。49年、広島で初当選。新人で大蔵大臣(現在の財務大臣)に就任した。このとき、秘書官に就いたのが当時大蔵官僚であった宮澤氏と大平氏であった。

岸田派の祖

 池田は、57年に佐藤氏とたもとを分かち、池田派を結成以した。節理るメンバーには、大平氏や宮澤氏がいた。当初は、非主流派として冷遇されていた。

 70年代には、田中派の支援で大平首相が登場した。

 80年代、後継問題で混乱。後継に宮澤氏を検討していたが田中角栄元首相がこれを嫌がった。85年に田中角栄元首相が脳梗塞で倒れると宮澤派が成立した。

 90年代、宮澤首相、河野総裁が誕生した。村山首相の後継者を決める総裁選で、宮澤派は、加藤氏を中心に竹下派の

アフター安保闘争

所得倍増計画

病室で見る東京オリンピック

 64年7月自民党総裁選。3選目を狙う池田首相は出馬。佐藤氏を破り、3選を果たした。池田首相を支持したのは党人派であった。党人派は、池田首相の後継が党人派の河野氏を指名する密約を池田首相と結んだといわれている。

 ちなみに、河野一郎は神奈川県の政治家で、河野太郎氏の祖父である。河野一郎氏の派閥は現在の二階派である。では、なぜ、河野洋平氏は麻生派のなのであろうか。河野一郎の息子、河野太郎が70年代に離党。80年代に復党した際に、中曽根派ではなく宮澤派に就いた。その結果、現在河野太郎は、宮澤派から独立した麻生派に所属している。

 しかし、総裁選に勝利した池田首相は病に倒れた。そのため、自身が誘致した東京オリンピックは病室から眺めることになった。

 64年10月、池田首相は体調不良を理由に退陣。総裁選で2位であった佐藤氏が後継総裁になった。

 

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