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50年代の自民党 自民党の結党

党人派と官僚派

 50年代から60年代、党人派と官僚派が勢力争いをしていた。

 官僚派とは、高級官僚出身の政治家である。代表格は吉田首相である。戦後、党人派の大部分はGHQによって公職を追放。選挙に出馬することができなかった。そのため、保守派の政治家が不足した。そこで代わりに政治家になったのが、高級官僚たちであった。

 党人派とは、戦前から政治家だった人たちである。代表格が自民党の初代党首である鳩山一郎である。

安保闘争と岸首相

 岸首相は、日清戦争勝利直後の96年の山口県に生まれた。東京帝国大学卒業後、農商務省に進んだ。当時のトップ省庁である内務省で、岸氏の判断は周りを驚かせた。

 農商務省は、農林省(現在の農林水産省)と商工省(現在の経済産業省)に分離された。岸氏は商工省に配属された。その後、満州に配属された。ここで、軍部や財界、官界に広範な人脈を築いた。同郷の鮎川氏(財閥のトップ)や松岡氏(国連脱退時の外務大臣)も満州にいた。東京へ戻ると、東條内閣で商工大臣として入閣。しかし、その後次官に降格。これにより、岸元大臣は反東條派になる。

 戦後は、A級戦犯として投獄された。48年に釈放。公職追放処分を受けて、民間企業の役員を歴任した。

 公職追放解除後は、自主憲法制定を掲げて政党を設立。ただ、53年総選挙で大敗。吉田自由党に入党する。 

 56年、岸政権が成立。汚職、貧乏、暴力の三悪の追放を掲げ、減税を実施した。

 また、米国とは一定の距離を置き、自主外交を展開した。

 60年1月、アイゼンハワー大統領と会談。安保条約を改定。安保条約の不平等性を改善する一方で、相互防衛を約束した。

 これにより、東京で安保闘争が起こる。60年7月岸内閣は退陣した。

石橋首相

 56年自民党総裁選が行われる。決選投票までもつれ込み、わずか7票差で岸首相を破り、石橋氏が総理総裁になった。しかし、体調不良で2か月で退陣。次点の岸首相が後継総裁になった。

自民党は何故誕生したのか?

 55年1月、鳩山首相は、衆議院を解散。比較第一党を確保するも、過半数をとることができなかった。

 55年10月、社会党左派と社会党右派合流。日本社会党が結成された。これにより、社会党が第1党になった。これに脅威を感じ、鳩山首相の民主党と吉田前首相の自由党が合併。自由民主党が設立した。

 鳩山首相は、自主外交を展開。ソ連と国交を回復し、国連に加盟した。

 鳩山首相は、ソ連との国交回復を花道に、退陣した。

鳩山首相

 鳩山首相は、帝国議会が設立される前の83年の東京で生まれる。東京帝国大学(現在の東京大学)卒業。地方議会を経て、1915年に衆議院に初当選。

 終戦後に、自由党を結成。46年の総選挙で第一党になる。しかし、公職追放。首相の地位を吉田に預ける。

 51年、公職追放を解除。

 54年11月、民主党を結党。幹事長に就いたのが岸氏である。12月に鳩山政権が成立した。

吉田首相

 52年4月、サンフランシスコ講和条約を締結。日本は独立をはたした。この前後から、公職追放が解除。鳩山氏や岸氏が政界に復帰する。

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60年代の自民党 高度成長と東京オリンピック

佐藤首相

吉田首相と池田首相

 佐藤首相は、日露戦争前の1901年に山口県の岸家に生まれた。兄は気に岸元首相である。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業。卒業後は、官僚にならず、民間企業に就職した。

 その後、鉄道省に入省。佐藤家の婿養子になる。

 48年、吉田内閣の官房長官に就任。翌49年に初当選。吉田自由党の幹事長になる。

沖縄返還

 佐藤首相は、沖縄返還に意欲を燃やしていた。69年にニクソン大統領が登場するとこれが現実味を帯び始めた。

非核三原則とノーベル平和賞

 佐藤氏が総裁になった64年10月、中国が核実験に成功した。日本は核の危機にさらされるようになった。翌65年1月に日米首脳会談。ジョンソン大統領は、日本の核保有を否定し、日本が核攻撃を受けたときは、日米安保条約に基づいて核兵器を持って報復すると約束した。『核の傘』の確約である。

 67年12月の衆議院予算委員会で、非核三原則を表明。佐藤首相はこれにより佐藤首相は、のちにノーベル平和賞を受賞する。

長期政権の理由① 高度成長

 就任時の64年、日本はオリンピック後の不景気に見舞われた。翌65年、山一證券が経営難。証券不況になった。佐藤政権は赤字国債を発行。この難局を乗り越えた。

 その後、日本は空前の好景気に入る。これは、74年の石油危機まで続いた。この好景気はいざなき景気と呼ばれた。

 このころ、自民党はスキャンダル報道がつづいた。あまりに多いスキャンダルに黒い霧と呼ばれた。66年12月、自民党の幹事長を実業家の田中氏から、官僚出身の福田氏に変えた。これにより、佐藤首相と田中幹事長の間に亀裂が生まれた。これが72年の田中派結成につながる。

66年12月、自民党に逆風が吹く中で衆議院を解散。自民党は議席を減らしたが、微減で済んだ。

長期政権の理由② 党人派の政治家たちの死去

 50年代から60年代前半は、2つの派閥が争っていた。党人派と官僚派である。党人派は、戦前から政治家だった人たちである。その代表が鳩山元首相である。一方、官僚派は、高級官僚出身の政治家である。

 60年代半ば、河野一郎氏や大野伴睦氏など党人派の大物政治家が死去。若い高級官僚であった官僚派主導の時代になった。

 佐藤首相は、人事の佐藤ともいわれた。次世代を担う田中氏、福田氏、大平氏を登用し、互いに競わせた。一方で、党人派の若手、三木氏や中曽根氏を登用した。この佐藤氏の閣僚人事戦略が70年代の派閥政治につながる。

 

池田首相

吉田首相と池田首相

 池田首相は、日清戦争後の1899年に広島県で生まれた。京都大学卒業後、大蔵省に入省した。当時の大蔵省は、東京帝国大学(現在の東京大学)卒の学閥があり、なかなか出世できなかった。

 戦後は、閣僚として吉田首相に仕えた。佐藤首相とともに吉田学校の門下生となった。49年、広島で初当選。新人で大蔵大臣(現在の財務大臣)に就任した。このとき、秘書官に就いたのが当時大蔵官僚であった宮澤氏と大平氏であった。

岸田派の祖

 池田は、57年に佐藤氏とたもとを分かち、池田派を結成以した。節理るメンバーには、大平氏や宮澤氏がいた。当初は、非主流派として冷遇されていた。

 70年代には、田中派の支援で大平首相が登場した。

 80年代、後継問題で混乱。後継に宮澤氏を検討していたが田中角栄元首相がこれを嫌がった。85年に田中角栄元首相が脳梗塞で倒れると宮澤派が成立した。

 90年代、宮澤首相、河野総裁が誕生した。村山首相の後継者を決める総裁選で、宮澤派は、加藤氏を中心に竹下派の

アフター安保闘争

所得倍増計画

病室で見る東京オリンピック

 64年7月自民党総裁選。3選目を狙う池田首相は出馬。佐藤氏を破り、3選を果たした。池田首相を支持したのは党人派であった。党人派は、池田首相の後継が党人派の河野氏を指名する密約を池田首相と結んだといわれている。

 ちなみに、河野一郎は神奈川県の政治家で、河野太郎氏の祖父である。河野一郎氏の派閥は現在の二階派である。では、なぜ、河野洋平氏は麻生派のなのであろうか。河野一郎の息子、河野太郎が70年代に離党。80年代に復党した際に、中曽根派ではなく宮澤派に就いた。その結果、現在河野太郎は、宮澤派から独立した麻生派に所属している。

 しかし、総裁選に勝利した池田首相は病に倒れた。そのため、自身が誘致した東京オリンピックは病室から眺めることになった。

 64年10月、池田首相は体調不良を理由に退陣。総裁選で2位であった佐藤氏が後継総裁になった。

 

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70年代の自民党 田中角栄と5つの派閥

70年代の日本

5つの派閥 三角大福中

 70年代は、派閥政治の全盛期である。その要因は72年の角福戦争である。

  • 田中派 現在の第3派閥の竹下派
  • 福田派 現在の第1派閥の細田派
  • 大平派 現在の第5派閥の岸田派
  • 三木派 大平派から離脱した麻生派と合流し
       現在の第2派閥の麻生派
  • 中曽根派 現在の第4派閥の二階派

自民党には、主流派と反主流派という言葉がある。主流派は総裁を支持する派閥で、反主流派は総裁をしない派閥である。この頃には自民党が野党になることは想像できない時代のため、反主流派が事実上の野党ということになった。

中ソ対立

 70年代は、国際情勢が大きく変わった。中ソ対立が激化。世界は、アメリカ、ソ連と中国の3つ巴の状態になった。 この時代に、日本と中国との関係が急速に改善。日中国交正常化が実現した。

オイルショックと赤字国債

 70年代、日本は高度成長期から安定成長期に入った。自民党は、不況の脱却のために赤字国債を大量に発行。財政は悪化。このころから、財政再建と消費税導入の議論が始まる。

あー、うー、大平首相

大平首相と大平派

 大平首相は、日露戦争後の1910年、香川県に生まれた。経済的に苦しく大学へ進学することはできなかった。当時は、昭和恐慌の最中、就職に苦労した。33年に一橋大学に入学。36年に大蔵省(現在の財務所)に入省した。終戦後も、大蔵省で働いた。このとき、大蔵大臣の池田氏の秘書官を務めた。

 52年、池田氏の支援で初当選。池田派に所属した。60年に池田内閣が発足すると官房長官に就任。その後、外相も務めた。しかし、64年に佐藤政権が成立すると、入閣もするも重要ポストに就くことはなかった。日米繊維交渉が失敗になると閣僚を終われた。72年、池田派のトップに立った。

現在の岸田派

 池田派は、大蔵官僚を中心に発足した。そのため、温和な人が多いため「公家集団」と揶揄されることが多い。政策では、日米関係を重視するもハト派(平和主義者)が多い。

 80年代に入ると、宮澤喜一氏と田中六助氏の後継者争いが起きた。これは田中六助氏の死去と田中六助氏を裏で支えた田中角栄元首相の死去で宮澤派が成立した。

 90年代に入ると、当時の総裁である河野総裁とYKKの加藤氏が対立。河野氏は池田派と離脱。これがのちの麻生派になる。

 00年代初頭には、加藤の乱がおこる。加藤についた谷垣派と加藤と対立した堀内派に分裂した。この2つの派閥は08年、反麻生で再び合流。現在の岸田派につながる。

世論を味方に密約を破る福田首相

 福田首相は、高い支持率を確保した。そのため、福田首相は大福密約を無視。78年総裁選への出馬を表明した。しかし、田中派が大平首相支持に回り、大平氏が福田首相を破り首相になった。

新冷戦

 この時代は、世界情勢の転換期であった。イラン革命で第二次石油危機が発生。また、ソ連のアフガニスタン侵攻で新冷戦が勃発した。

 大平首相は、同盟国と初めて表現。福田前首相の全方位外交から外交方針を転換。日米関係重視の外交政策を進めた。また、モスクワオリンピックのボイコットを決めたのも大平首相である。

元号法の制定

 大平首相は、元号法を制定。日本国憲法施行で法的根拠を失った昭和という元号に法的根拠を与えた。平成や令和の元号はこの法律に基づいて使用されている。

消費税と財政再建

 75年から赤字国債の発行が常態化した。大蔵省出身の大平首相はこれを問題視した。そのため、財政再建のために消費税の導入を発表した。

 当時は、ロッキード事件の真っただ中。国民は反発した。79年衆院選で自民党は過半数割れの大敗となった。

四十日抗争

 79年衆院選の敗北。福田前首相らの反主流派は大平首相の退陣を要求。大平首相はこれを拒否した。主流派は両院総会を行おうとしたが、反主流派がバリケードを作りこれを阻止した。ハマコーこと浜田幸一が叫びながらバリケードを壊している映像はこの時のものである。

 結局、自民党は候補者を一本化できないまま、首班指名選挙に突入。反主流派は福田前首相に投票。かろうじで大平首相の再選が決まった。

この時の勢力図は次のとおりである。

  • 主流派 大平派、田中派、新自由クラブ
  • 非主流派 福田派、三木派、中川グループ

中曽根派は、当初、非主流派であった。しかし、一部の議員が渡辺氏などが主流派に回った。

ハプニング解散

 翌80年、予算成立後の5月、日本社会党は内閣不信任案を提出。非主流派の議員が欠席したため、内閣不信任案が可決した。

 この時、中曽根派は主流派に回った。これが82年の中曽根政権につながる。

 大平首相は、6月に衆参同日選挙を行うことを決めた。

急死と衆院選に勝利

 大平首相は、この選挙中に急死。同情票が集まり、自民党は大勝した。

 非主流派は、この選挙結果から総裁を出すことはできなかった。田中派も、ロッキード事件の関係から首相を出すことができない。そのため、大平派の鈴木が総裁になった。

福田首相

群馬出身の大蔵官僚

 福田首相は、日露戦争時の1905年に群馬県で生まれた。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業し、大蔵省に入省した。

 52年、大蔵官僚でありながら無所属で出馬。初当選を果たす。翌53年に自由党に入党。岸派に所属。59年の岸内閣で幹事長に就任する。

現在の細田派へ

 福田派の政策は、再軍備を進めるタカ派。外交面では親米で、反共主義である。

 84年、同じタカ派の石原慎太郎らの中川グループを吸収。

 85年に、田中元首相が脳梗塞で倒れると、主流派に返り咲く。

 91年総裁選。三塚氏が出馬。亀井氏らが竹下派の推す宮沢派に就いた。

 98年総裁選。小泉氏が出馬。亀井氏らは梶山氏を支持。亀井氏らは福田派を離脱。その後、現在の二階派(旧中曽根派)に合流した。

 01年小泉政権が成立。最大派閥になり、現在の細田派につながる。

大福密約

 76年衆院選の敗北で、三木首相は退陣。ロッキード事件で田中派も出馬ができない状況にあった。福田氏は、大平氏と2年後に首相の座を渡すと密約を結んだといわれている。これが大福密約である。

 国会は衆院選で大敗しているので保革伯仲の状況であった。首班指名選挙もわずか1票差で勝利した。

低支持率でスタート

 三木おろしの流れから低支持率でスタート。しかし、77年の参院選に勝利。これをきっかけに大福密約破りを検討するようになる。

 また、巨人の王選手が世界記録を達成。福田首相は国民栄誉賞を創設し、王選手に授与した。

 また、保守派として、元号法の成立に尽力した。

景気回復

 年換算7%の経済成長を達成。福田首相はますます自信を得た。

外交

 日航機ハイジャック事件が発生。超法規的措置で囚人らを釈放。テロリストに屈したとして国際的に批判を浴びた。

 アジア各国にODAを実施。この資金はNIEsにつながった。

 中国の鄧小平副総理が訪日。日中平和友好条約を締結した。鄧小平氏は経済重視の親日派といわれた。

三木首相

クリーンな三木派

 日露戦争直後の07年に徳島県に生まれる。明治大学卒業。戦前の昭和12年に初当選。

麻生派に吸収される

 三木派は、中道政党の国民共同党を基盤とした。そのため、自民党の中では、左派的性格が強い派閥であった。

 三木派は、自民党結成後の56年に成立。少数派閥でありながら、キャスティングボードを握ることで発言力を高めた。

 64年総裁選。河野一郎氏(現在の二階派)を支持する松村派と佐藤栄作氏(現在の竹下派)を支持する三木派に分裂した。

 78年総裁選には河本氏が出馬。79年の四十日抗争では福田氏とともに反主流派として参加した。89年総裁選で自派の海部氏が首相に。93年衆院選(小沢グループが自民党を離党した選挙)で、一部の議員が離党し、新党さきがけを結成した。翌94年、海部氏らが自社政権に反対して離党。17年5月、宏池会から離脱した麻生派に合流。三木派の歴史は終わった。

バルカン政治家

 74年10月、文春砲が炸裂。週刊文春が田中首相の金脈スキャンダルと報じた。

 田中首相の後継には、三木氏のほか、大平氏(現在の岸田派)と福田氏(現在の細田派)が名乗りを上げた。田中氏は、大平氏を後継に考えていた。しかし、大平氏が首相になると、第2派閥の福田派を敵に回すことになる。そのため、折衷案として三木首相が決定した。

 三木首相が幹事長に指名したのが中曽根氏(現在の二階派)である。

景気対策と赤字国債の発行

 三木首相が就任した76年は、オイルショックによる狂乱物価の時代であった。三木首相は独占禁止法を改正。違法なカルテルを禁止し、物価高騰を抑えようとした。

 この三木首相の経済対策を支えたのが福田氏である。

ロッキード事件と三木おろし

 三木首相に最初に課せられた仕事は、自民党の信頼回復である。三木首相は、公職選挙法や政治資金規正法を改正。クリーンな政治を目指した。

河野洋平氏の新自由クラブ

 76年中曽根派の河野洋平氏は、自民党を離党。新自由クラブを結成した。

衆院選で大敗 

田中首相

田中角栄氏とは

 田中氏は、第一次世界大戦中の1918年に新潟県に生まれた。小学校を卒業後、建築関連の仕事をしていた。40年代に建築会社を設立した。実業家として成功した。

 47年に初当選。57年の岸内閣で初入閣。郵政大臣に就任。マスコミとの関係を深めた。62年に大蔵大臣(現在の財務大臣)に就任。最初はエリート官僚に馬鹿にされていたが、実業家の経験で人心を掌

握していく。65年に自民党幹事長に就任した。

現在の竹下派へ

 田中氏は、74年の金脈スキャンダルで退陣。その後、ロッキード事件で首相に返り咲くことはできなかった。それでも最大派閥を利用して、キングメーカーであり続けた。

 83年、ロッキード事件で有罪判決。85年に脳梗塞で倒れる。この時、竹下氏がクーデターを起こして竹下派を結成。竹下首相が誕生する。

93年、小沢氏ら若手議員が自民党を離党。直後の衆院選で自民党は野党になる。95年、与党に返り咲く。橋本首相と小渕首相が誕生する。そして、現在、現在第3派閥の竹下派になる。

田中派の結成

 72年総裁選。佐藤首相は福田氏を後継に考えていた。

 72年05月、佐藤派議員を大量に引き抜き、田中派を結成した。

 

角福戦争

 72年7月の総裁選には、中曽根派を除くすべての派閥が出馬した。中曽根派は田中派と福田派の間で争奪戦になった。結果、中曽根派は田中派に回った。この結果、田中首相が誕生した。

 三木氏は、一部の議員が福田派に寝返ったことで最下位になった。そのため、三木派は決選投票で田中派に回った。

 田中首相は、大正生まれで初めての首相になった。

 国民は、エリート官僚の福田首相を、たたき上げの田中氏が勝利したことで大いに歓迎した。

日中共同宣言

 70年代、中国はソ連と対立。これにより、日本などの西側諸国との国交回復の道が見え始めた。

 72年、田中首相が訪中。日中共同宣言を発表。日中国交正常化交渉が始まった。

 なお、この時に石原慎太郎氏らは、日中国交正常化に反対。中川グループを発足させた。

日本列島改造論

 田中氏は、総裁選直前の72年6月に日本列島改造論を発売。交通もを整備して地方を活性化する政策を掲げた。

 田中首相が総裁になると、地方の不動産価格が上昇した。

オイルショック

74年参院選

 74年7月、景気悪化の中で参院背が行われた。自民党は過半数をかろうじて維持。多くの議席を減らした。ここから保革伯仲国会が始まる。

 田中首相は、三木派のおひざ元の徳島県に自派の後藤田氏を出馬。三木派の現職議員を非公認にした。この事件をきっかけに三木氏は、福田氏とともに内閣から離脱した。

金券スキャンダルで退陣

 74年10月、週刊文春が田中首相の金脈スキャンダルを報じる。翌11月、田中首相は退陣した。

佐藤首相

四選

 70年総裁選。佐藤首相は福田氏への禅譲を考えていた。しかし、反福田派が画策

 74年、ノーベル平和賞を受賞。

沖縄返還 

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1980年代前半の自民党 中曽根長期政権

バブル経済と中曽根政権

青年将校、中曽根首相

 中曽根首相は、1918年の第一次世界大戦中に生まれた。東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業。戦前は、内務省で働き、海軍へ出向した。

 47年の衆議院選挙で初当選。この選挙は、大日本帝国憲法下の最後の衆議院選挙であった。自民党結成前は、民主党に所属。反吉田の急先鋒で活躍した。

 59年の岸内閣で初入閣。

 首相退任後は、

首相を輩出する群馬3区

 中曽根首相の地盤は、高崎市のある群馬3区である。福田元首相がトップ当選し、2番手で中曽根氏、3位に社会党議員が当選し、末席で田中派の小渕氏が当選した。3人の首相を輩出する選挙区である。

 96年、小選挙区制が導入されると、候補者調整で比例選挙区に回った。しかし、03年、小泉首相が定年制を導入。中曽根氏は政界を引退した。

現在の二階派

 中曽根首相は、自民党結党前は野党の民主党に所属。吉田首相との対決姿勢を見せていた。

 自民党が結党されると、河野一郎派に所属。ちなみに、河野一郎氏は河野太郎の祖父である。河野派は当初、主流派1であったが池田首相時代に反主流派2になる。66年、佐藤首相の支持・不支持で分裂。中曽根ら、不支持派は河野派を離脱。中曽根派を旗揚げした。河野一郎氏の後を継いだ河野洋平氏は、中曽根派に参加。中曽根派が正式な後継派閥になった。72年の角福戦争では、キャスティングボードを握り、田中首相の誕生に貢献した。一方、佐藤首相支持派はのちに、福田派に合流している。

 中曽根氏は、読売新聞の正力松太郎氏や渡辺恒雄氏らと関係が深い。

 中曽根氏は、90年リクルート事件で自民党を離党。派閥は渡辺氏が引きついだ。98年、山崎拓氏らが中曽根派を離脱。山崎派(現在の石原派)を結成。99年、三塚派(現在の細田派)を離脱した亀井グループが合流。村上・亀井派を結成。これが現在第3位の二階派となる。

財政再建とJR

 日本は内需拡大をするため、国営事業の民営化を進めた。JR(旧国鉄)、JT(日本たばこ産業)、NTT(元日本電電公社)

ロンヤス外交

 80年代に入ると、アメリカでは双子の赤字が問題視されるようになった。80年のソ連のアフガニスタン侵攻で、新冷戦が始まると軍事費が増大。財政はひっ迫した。

 アメリカのレーガン大統領は、鈴木首相(大平派、現在の岸田派)に軍事協力を求めた。しかし、鈴木首相はこれをやんわり断った。そのため、日米の関係は悪化した。

 また、円借款問題で韓国政府(全斗煥大統領)でもめていた。

 中曽根首相は、首相になると日韓関係は改善された。

 中曽根首相は、防衛費の拡大と武器輸出三原則の例外処置を土産に訪米。レーガン大統領はこれを歓迎。これによりロンヤス関係が成立した。

 83年5月、ウィリアムズパークサミットを開催。レーガン大統領は、中距離弾道ミサイルの配備を提案。しかし、フランスのミッテラン大統領らヨーロッパの首脳は消極的な対場をとった。このとき、中曽根首相の発言で雰囲気が変わる。声明に西ヨーロッパへの中距離弾道ミサイル配備の可能性について言及された。

 85年、プラザ合意で円高誘導。これにより、円高不況をぼうしするため、大胆な金融緩和を実施。バブル経済が発生した。

 それでも、アメリカが景気回復をしないため、貿易自由化交渉が進められた。これが、80年代後半の牛肉オレンジ自由化問題につながる。

中国と靖国公式参拝

 中曽根首相は親中派である。70年代は日中国交正常化に尽力した。83年11月に、胡耀邦総書記の訪日を実現している。

 85年8月15日、中曽根首相は靖国神社を公式参拝。日中関係が急速に悪化した。当時の中国は、親日派と反日派で権力闘争が行われていた。靖国神社公式参拝で、親日派のメンバーの立場が悪くなった。そのため、中曽根首相は以後公式参拝を中止している。

防衛費GNP1%枠の撤廃

 中曽根首相は、反吉田派である。自主憲法制定、再軍備を主張していた。

 靖国神社の公式参拝。防衛費GNP1%枠の撤廃を行った。

 このように右派色は否定的な一面もあるが。86年の三原山噴火の際は、国家を総動員して全島避難をさせるなど安全保障上の利点も大きい。

 当時、世界は新冷戦の真っただ中。アメリカ政府は防衛費GNP1%枠の撤廃を歓迎した。

男女雇用機会均等法

 79年に、国連で女子差別撤廃条約が締結。これをうけて、85年に男女雇用機会均等法が改正された。これにより、女性の社会進出が進んだ。

 また、風営法を改正。性風俗の規制を強化した。ちなみに、この時期にトルコ風呂がソープランドに改称された。これはのちに都知事になる小池氏が尽力したものである。トルコ人学生の陳情を受けて、カイロ大学を卒業した小池氏が厚生労働省に陳情したものである。 

派閥の世代交代

84年総裁選 二階堂擁立構想

 84年総裁選。高支持率を背景に無投票での再選を考えていた。非主流派の安倍氏(福田派)、宮澤氏(大平・鈴木派)、河本氏(三木派)が再選阻止に動いていた。

 84年、鈴木前首相(大平・鈴木派)は、目白の田中邸を訪問。田中派の二階堂氏擁立を提案した。しかし、田中元首相はこの提案を拒否。

 中曽根首相の無投票再選が決まった。

 この事件で、元首相の発言力が低下していることが露呈。各派閥で世代交代が進んだ。

  • (細田派)福田元首相 → 安倍氏
  • (岸田派)鈴木前首相 → 宮澤氏
  • (麻生派)三木元首相 → 河本氏

大平派 田中氏 vs 宮澤氏

 大平派は、鈴木首相退陣後に後継者起こった。実力で行けば、次は宮澤氏のはずである。しかし、宮澤氏は田中元首相に嫌われていた。そのため、田中角栄元首相は、田中六助氏を支持に回った。それに対し、宮澤氏をサポートしたのが福田元首相である。これで角福戦争の代理戦争が勃発した。

 この後継者争いは、85年田中六助氏が死去。田中角栄元首相も死去。これにより、宮澤派が成立した。

83年総選挙 河野氏の新自由クラブとの連立政権

 83年6月の参院選、自民党が勝利。順調な滑り出しをきった。しかし、その後に逆風が吹き始めた。10月、ロッキード事件で実刑判決。12月の衆院選で、過半数割れの大敗をした。

 中曽根氏は、元中曽根派の河野洋平氏率いる新自由クラブと連立政権を樹立。何とか政権を維持することができた。

 ちなみに、この選挙で83年1月に死去した中川一郎の後を継ぎ、中川昭一氏が初当選。タカ派色の強い福田派に所属した。のちに亀井氏らとともに村上亀井派(現在の二階派)に参加した。

田中曽根内閣

 82年総裁選。鈴木首相の再選を予測していた。しかし、突如鈴木首相が不出馬を表明。後継に中曽根首相を指名した。

 82年の自民党総裁選。田中派の支持を受けて勝利した。第一次田中内閣では、後藤田氏や二階堂氏などの田中派の議員が起用された。そのため、田中曽根内閣などと揶揄された。

 なお、この総裁選では以下の人が出馬した。

  • 安倍氏 反主流派の福田派(現在の細田派)
  • 河本氏 反主流派の三木派(現在の麻生派)
  • 中川氏 石原慎太郎氏と青嵐会というタカ派集団を結成
        翌83年1月に自殺。

鈴木首相

 鈴木首相は岩手県の網元の家に生まれた。大学時代に津波で大きな被害を受けて政治家を志すようになる。

 中曽根首相と同じ47年衆議院選挙で初当選。日本社会党に所属する。その後、支持者の説得で吉田首相率いる民主自由党に参加。自民党結党後は池田派の宏池会(後の大平派、現在の岸田派)に所属。

 80年、ハプニング解散。大平前首相が選挙中に死亡した。ロッキード事件の最中で、第一派閥の田中派は総裁を出せなかった。一方で、福田派や三木派は不信任に参加したために総裁を出すことはできなかった。そのため、大平派の鈴木氏が首相になった。

 海外での知名度が不足。Who is 大平 と揶揄された。

 この時に官房長官に就いたのが大平派の宮澤喜一氏である。

 この時期から財政再建が叫ばれるようになった。大平前首相は消費税を導入しようとして失敗。鈴木氏は「増税なき構造改革」を掲げた。これを指揮したのが中曽根氏である。

 一方で、反主流派の河本氏(三木派)、中川氏(石原慎太郎派)を起用した。

 政治改革に着手。参議院の全国区を比例代表制に変更した。

 

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1980年代後半の自民党 竹下首相とリクルート事件

金権政治と政治不信

 80年代、日本はバブル景気の中にあった。自民党も中曽根首相の長期政権が続いていた。

 しかし、80年代後半に入ると、自民党に逆風が吹き始めた。それがリクルート事件である。これにより、自民党は逆風が吹き始め、参議院で過半数割れ、ねじれ国会の時代に入っていく。

クリーンな政治家、海部首相

三木・河本派

 海部首相は、愛知を基盤にした政治家である。少数派閥の三木・河本派閥に所属。なお、三木・河本派は、後の山東派となり、麻生派に合流した。

クリーンな政治家

 参院選の敗北で宇野政権は退陣。98年総裁選が行われた。当時の有力政治家は次の3人である。宮沢派(元鈴木派で、現在の岸田派)の宮澤喜一氏。宮澤氏は後に首相になる。安倍派(元三塚派で、現在の細田派)の安倍晋太郎氏。安倍氏は、安倍首相の父である。渡辺派(元中曽根派で、のちの二階派)の渡辺美智雄氏である。しかし、彼らはリクルート事件の関与で出馬を見合わせた。そのため、次の次の首相を目指して動いていた。

 そこで、竹下元首相が指名したのは、河本派の海部首相であった。これは、田中首相が退陣した際に、三木首相を指名したのに近い。

 総選挙では、海部氏のほかに、二階堂派(旧田中派で、現在は存在しない)の林氏と、のちに都知事になる無派閥の石原慎太郎氏が出馬した。海部氏は、河本派のほかに主要派閥の竹下派と安倍派が支持し勝利した。ちなみに、林氏は宮澤派の支援を得ていた。石原氏は、安倍派を除名された亀井氏らの支援を受けた。

ねじれ国会

 首班指名選挙では、衆院では、海部総裁が選出された。しかし、参院では、社会党の土井委員長が選出された。ここではじめて衆議院の優越が適用。衆院で選出された海部総裁が首相になった。

 しかし、法律制定では衆議院の優越は使えない。このように、参議院で過半数を確保していない状態をねじれ国会という。海部首相は社会党などの野党に配慮した政治を行う必要になった。

竹下元首相 VS YKK

 海部首相は、実質竹下元首相の傀儡政権であった。海部政権が誕生すると、小沢幹事長が組閣名簿を作成したといわれている。

 重要な政策は、竹下派の竹下元首相、金丸氏、小沢幹事長に相談した。この3人は、金竹小(こんちくしょう)と呼ばれた。

 一方で、反竹下派の発言力も高まった。安倍派(現在の細田派)の小泉氏、宮澤派(現在の岸田派)の加藤氏と中曽根派の山崎氏である。彼らは、イニシャルをとってYKKと呼ばれた。

 竹下派とYKKの戦いは90年代に激化。最終的にはYKKが勝利。2001年の小泉政権につながる。

女性問題で退陣、宇野首相

滋賀の中曽根派の政治家

 宇野首相は、関西の滋賀県選出の国会議員である。県議会議員を経て、国政へ進出した。国政では、中曽根派の議員で活躍した。

リクルート事件で竹下首相が退陣

 89年4月、リクルート事件で竹下首相が退陣。有力政治家はリクルート疑惑で身動きが取れなかった。多くの政治家に首相を打診したが、低支持率で選挙に勝てる自信がなく、ほとんどが辞退。サミット直前ということもあり、外相で中小派閥の中曽根派の宇野首相が誕生した。

サミットと天安門事件

 6月、中国で天安門事件が発生。西側諸国は中国に対して経済制裁を行った。宇野首相も、竹下政権時に決定した中国への資金提供を凍結した。

 サミットでは、三塚外相が中国を孤立させないとほかの西側諸国と距離を置いた。

 中曽根元首相や竹下前首相、鈴木元首相が対中制裁に否定的な立場をとった。この背景には、牛肉オレンジ自由化問題があった。

女性スキャンダルと男女雇用機会均等法

 宇野首相は、サミット直後に参院選を控えていた。当時の自民党はリクルート事件で支持率は低く、参院選は難航が予測された。

 そのような中、就任直後の宇野首相に女性スキャンダルが襲った。

 当時の日本は、85年に男女雇用機会均等法が成立。女性の社会進出が重要視された。最大野党の社会党では、女性の土井たか子が党首に。参院選では多くの女性議員を立候補させた。

参院選で自民党が過半数割れ

 リクルート事件や女性スキャンダルで、自民党は大敗。

 7月の参院選では、マドンナ旋風。土井たか子社会党の躍進で過半数割れを起こす。自民党が参院で単独過半数を回復するのは2012年の安倍政権の時代になる。

 当然、宇野首相は退陣した。

リクルート事件と竹下首相

Daigoのおじいちゃん

 竹下首相は、島根県の英語教師であった。その後、県議を経て国政へ進出した。田中派の議員として活躍した。

 ちなみに、現在の竹下派のボスである竹下亘氏は竹下首相の弟である。2000年、病気で竹下元首相が政界を引退。その地盤を引き継いだのが竹下亘氏である。の竹下派のボスである竹下亘氏は竹下首相の弟である。2000年、病気で竹下元首相が政界を引退。その地盤を引き継いだのが竹下亘氏である。

 余談だが、石破氏は隣の鳥取県が地盤。安倍元首相は隣の山口県が地盤である。

田中元首相、倒れる

 84年、田中元首相は二階堂擁立構想を握りつぶし、中曽根首相を再選させた。

 翌85年2月、田中元首相は脳梗塞で倒れた。ここから政治は転換期に入っていく。

任期延長

 86年7月、中曽根首相は死んだふり解散で衆議院と参議院の同日選挙を実施。自民党は大勝した。

 これは、ハイテク景気が寄与した。

 86年9月、中曽根首相は任期満了。当時の自民党の規定では、総裁の任期は2期4年であった。しかし、直前の自民党の大勝を受け、特例で1年延長された。

竹下派の旗揚げ

 87年5月、田中派の二階堂氏が総裁選への出馬を決めた。このとき、竹下氏は、これに反発。多くの議員を引き連れて、田中派を離脱。当時の最大派閥である竹下派を結成した。

ニューリーダー

 次期総裁は、中曽根首相にゆだねられた。当時の有力政治家は以下のとおりである。

竹下氏、旧田中派(現在の竹下派)のトップ

安倍氏、安倍元首相の父。旧福田派(現在の細田派)のトップ

宮澤氏、旧大平派のトップ

 ちなみに、残りの派閥は、当時の首相の中曽根派と三木派を継承した河本派がある。

 その中で、中曽根首相は竹下氏を後継者に指名した。

昭和天皇崩御

 竹下首相の時代、日本はバブル経済の真っただ中にあった。

 そのような中、悪夢の89年が始まった。1月昭和天皇が崩御。浮かれ気分の日本は自粛ムードに入った。

 ちなみに元号を発表したのは、当時の官房長官である小渕氏である。

消費税導入

 4月、消費税が導入。3%でスタートした。これにより、国民の不満は高まった。

 政治家の経済政策を見るポイントは、緊縮財政かばらまき政策課である。緊縮財政政策とは、増税を行って財政の健全化を図る政策である。一方で、ばらまき政策とは、国債を発行して、財政支出を拡大し、景気を良くして税収を増やし財政を健全化しようとする政策である。

牛肉オレンジ自由化

 80年代、日本は日米貿易摩擦が問題化された。

 竹下首相は、農産物の貿易自由化を突きつけられた。竹下首相は米の自由化を阻止したが、かわりに牛肉とオレンジの輸入を認めた。

 自民党の支持基盤は、農村に集中していた。牛肉オレンジ自由化で自民党は農家の大きな反発を受けた。

 この貿易摩擦から、自民党はアメリカと対抗できる力を持とうとした。そこで目を付けたのが中国であった。

リクルート事件で退陣

 消費税が始まった4月、大きな金権スキャンダルが発生した。リクルート事件である。

 7月に参院選を控えていたため、竹下首相は退陣した。

 

 

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1990年代の自民党 非自民連立政権と政治改革

野中氏 vs 小沢氏

 90年代に入ると、国民は自民党の金権政治に嫌気を指していた。これにこたえるために小沢氏は政治改革に必死になっていた。

 竹下派の会長の金丸氏が失脚すると、小沢氏ら若手グループと野中氏らが対立した。小渕氏が次に会長になると、小沢氏らは自民党を離党。衆議院選挙で自民党が敗北。非自民連立内閣が成立した。

 しかし、90年代後半に入ると、野中氏ら逆襲。異例の自社さ政権を成立。野中氏らが政権を握るようになる。

冷めたピザ、小渕首相

 98年7月、社会党とさきがけが連立を離脱。

 同7月の参院選で、自民党は敗北。その責任をとり、橋本首相は辞任した。この頃自民党は、2つの流れができた。自社さ政権の再構築を求めるグループと小沢自由党と保保連合を組むグループである。

 自社さ政権は、主として親中派のハト派で構成された。加藤派(現在の岸田派)の加藤氏や小渕派(現在の竹下派)の野中氏が中心となった。一方、保保連合は、タカ派を中心に構成された。中曽根派(石原派、麻生派)の中曽根氏、三塚派(細田派)の亀井氏、小渕派(竹下派)の梶山氏が中心となった。

 そのような中、総裁選が行われた。総裁選には、小渕派(竹下派)の小渕氏、小渕派を離脱した梶山氏、三塚派(細田派)の小泉氏(小泉進次郎の父)が出馬。小渕氏が勝利した。田中真紀子氏は、この総裁選を「凡人・軍人・変人の総裁選」と評した。この総裁選は多くの派閥の分裂を引き起こした。

 小渕派(竹下派)は、梶山氏が離脱したが、小渕氏支持でまとまった。

 宮沢派(岸田派)は、加藤氏を中心に、小渕支持にまとまった。

 中曽根派(二階派)は、梶山氏を支持。しかし、YKKの加藤が山崎氏らを引き抜く。山崎氏らは、派閥を離脱して山崎派(石原派)を結成し、小渕氏に回った。

 三塚派は、小泉氏を支援したが、亀井氏ら離脱し派閥を離脱して梶山支持へ回った。そのため、小泉氏は最下位となった。派閥を離脱した亀井氏らは、中曽根派に合流した。また、この総裁選でYKKは、山崎氏・加藤氏と小泉氏に亀裂が生じた。これが2000年の加藤の乱につながる。

 首相指名選挙では、衆院では小渕氏、参院では民主党の菅氏が指名。衆議院の優越で、小渕政権が成立した。

 98年10月、民主党の金融再生法を丸パクリして成立させた。

 98年11月、公明党の意見を取り入れて地域振興券を発行。

 小渕首相は、財政出動(ばらまき政策)をして金融不況を脱した。小渕時代の財政出動は、小泉政権時代まで効果を及ぼした。そのため、小泉首相、自ら財政出動せずに好景気を得ることができた。

 99年01月、小沢自由党と公明党との連立政権が成立。

 99年09月、任期満了で総裁選。無投票再選を模索したが加藤派(岸田派)の加藤氏、山崎派(石原派)の山崎氏が立候補。小渕氏が精選した。加藤氏と山崎氏は、報復人事で政治の中枢から外された。これが2000年の加藤の乱につながる。

 00年4月、小沢氏が連立離脱を画策。自由党は分裂し、小沢自由党と保守党に分裂した。小沢氏らは、のちに菅氏らの民主党に合流した。

山一証券を廃業させた、橋本首相

 95年総裁選は、宮沢派(岸田派)の河野氏(河野太郎氏の父)と小渕派(竹下派)の橋本氏の一騎打ちとなるはずだった。宮沢派は、自派閥の河野氏ではなく、橋本氏支持へ回った。河野氏はこれにより、河野氏は宮沢派を離脱。98年、河野派を結成した。これがのちの麻生派である。

 代わりに対抗馬として立ったのが三塚派(細田派)の小泉氏であった。この総裁選で

 96年1月、村山首相が辞任。橋本自社さ連立政権が成立。

 橋本政権は、最初から爆弾を抱えていた。住専問題である。住専の不良債権処理に税金を投入しようとした。

 96年2月、クリントン大統領は普天間基地の返還協定を結んだ。

 96年9月、衆院選で自民党は議席を増やす。11月、社会党とさきがけは閣外協力の形になった。

 橋本首相は、官僚の力をそぐため、橋本行革を実施。大蔵省が財務省と金融庁に分離したのがこの時である。これが小泉政権時代に施行。小泉の発言力の基盤はここにあった。

 96年12月、ペルー日本大使館人質事件

 97年の国会では、普天間基地の移転先問題が発生。この頃から小沢氏らとの保保連合が画策され始める。

 96年6月、橋本首相がアメリカ国債を売りたいと発言。アメリカの株価が暴落。

 96年11月、ロシアのエリツィン大統領と首脳会談

 96年11月、構造改革法を制定。赤字国債の削減スケジュールを決めた。橋本氏は緊縮財政を組んだ。同じ頃、北海道拓殖銀行の破綻などの金融機関の破綻が相次ぐ。橋本氏の金融ビックバン政策に批判が集まる。

 98年7月の参院選は、アジア通貨危機や金融破綻などの不況かで実施。自民党は敗北した。

異例の自社さ政権、村山首相

河野総裁

 橋本首相の前の総裁は、河野洋平氏であった。21年総裁選挙で立候補が予測される河野太郎の父である。選挙区は神奈川県である。もともとは中曽根派(二階派)であった。70年代に自民党を離党して新自由クラブを結党。90年代に自民党に合流。中曽根派ではなく、宮沢派(岸田派)に所属。宮沢政権に尽力した。宮沢内閣では、官房長官を務めた。

異例の自社さ連立政権

 94年6月、河野総裁は異次元の連立政権を成立させた。国民福祉税構想で離脱した社会党と連立を組んだのである。その見返りに提示したのが、首相の座であった。

自衛隊と社会党

 95年は、大きな事件が幾つも発生した。1月に阪神大震災。3月に地下鉄サリン事件が発生した。阪神大震災では、社会党政権であるため、自衛隊への出動命令がおくれ、多くの死者を出したといわれている。

 95年8月には村山談話を発表。戦後50年で、侵略と植民地支配を謝罪した。

社会党を失った、羽田首相

 94年4月、献金スキャンダルで細川首相が退陣。羽田政権が成立した。この頃から、小沢氏らの新進党と社会党との亀裂が問題になった。

 組閣の翌日、社会党と連立離脱を表明。少数与党でスタートした。羽田政権は、6月にようやく予算を成立。しかし、政権を維持することができなかった。解散にも踏み切れず、退陣した。

非自民連立、細川首相

 93年8月、竹下派が分裂。小沢幹事長らが、社会党とともに内閣不信任案を可決。衆議院を解散した。

 国民福祉税構想

選挙管理内閣、宮沢首相

解散ができなかった、海部首相

クリーンな政治を求められ90年代は、海部首相で始まった。海部首相は河本派(のちに麻生派に合流する山東派)出身。河本派の特徴は、弱小であること、クリーンな政治家が多いことで提唱されている。

 海部首相は、政治改革を実現するために解散へ踏み切ろうとした。しかし、最大派閥の竹下派がNoを突きつける。91年1月、海部首相は退陣に追い込まれた。

 

 

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2000年代の自民党 小泉劇場の時代

リーマンショックで再び野党へ

麻生政権

 08年9月、福田首相が辞任を表明。町村派は自派閥からの出馬を断念。これにより、候補者が乱立した。最終的には麻生派(旧河野派)の麻生氏が勝利した。

年越し派遣村

 世論の支持をうけて、衆院選に打って出るはずであった。しかし、この時にリーマンショックが発生。景気が急速に悪化した。この時、派遣切りが発生。多くの失業者が出た。

 12月には、東京の日比谷公園に年越し派遣村が発生した。

衆院選で政権交代

 翌09年08月に衆議院を解散。自民党は過半数割れ。政権交代が起こった。

谷垣総裁へ 

 衆院選の大敗で、町村派(細田派)と津島派(竹下派)が大幅に落選者を出す。これにより、谷垣派(現在の岸田派)が第一派閥に。衆院選後の総裁選で谷垣総裁が登場した。

相次ぐ短命政権

福田首相と麻生包囲網

 07年7月、消えた年金問題で参院選で大敗。安倍首相は辞任した。町村派(旧森派、現在の細田派)は福田首相を立候補。谷垣派と古賀派も、福田首相支持に回り、福田首相が誕生した。

 翌年、古賀派が谷垣派(現在の岸田派)に合流した。これにより、町村派(細田派)、津島派(竹下派)に次ぐ第三派閥になった。

小泉首相の後継者、安倍首相

 06年9月、小泉首相が任期満了。総裁選で同じ森派(細田派)の安倍首相が誕生した。この選挙には、河野グループの麻生氏と谷垣派(岸田派)の谷垣氏も出馬。予想に反し、麻生氏が時点に就いた。そのため、加藤派と古賀派は危機感を覚えた。

小泉劇場

郵政解散と刺客

 小泉首相は、05年に郵政民営化法案を提出。これは、しかし、多くの造反者がでて否決された。

 郵便局で集めた資金は、多くの公共事業に回った。この公共事業は竹下派の集票マシンであった。そのため、小泉氏は、この集票マシンを壊すために郵政民営化を実施したかった。

 小泉首相は、すぐに解散に打って出た。造反者は公認せず、さらに刺客として多くの議員を送り込んだ。小池都知事も刺客として兵庫から東京へ鞍替えして出馬した。

 自民党は、多くの新人議員が誕生した。彼らは小泉チルドレンと呼ばれた。

 一方、江藤亀井派は、亀井氏が除名されたため伊吹派(二階派)になった。また、橋本派は津島派(後の竹下派)になった。また、森派(現在の細田派)は津島派を抜いて第一派閥になった。

 07年、郵政は民営化された。しかし、民主党政権に代わると郵政民営化は見直された。

道路公団民営化

 道路公団とは、高速道路をつくる公社である。小泉首相はこれを民営化した。

非正規労働者の増加

 派遣法を改正。製造業でも派遣社員を使えるようになった。これにより、就職氷河期世代の多くの人々が非正規労働者となった。

規制緩和と実感なき景気回復

 小泉政権は、小さな政府を主導した。そのため規制緩和を実施した。酒税法や農地法、会社法を改正。様々なビジネスが展開された。

 これにより、GDPが増加した。実際、ヒルズ族と呼ばれる六本木ヒルズ近郊に住む富裕層が数多く誕生した。一方で、賃金はほとんど上がらなかった。そのため、多くの人々は景気回復を実感できなかった。これが実感なき景気回復と呼ばれる理由である。また、小泉首相の経済政策で格差は拡大していった。

構造改革

地方行政と三位一体の改革

 小泉政権は、中央官庁が地方への影響力を低下させるために三位一体の改革を実施した。

 国から地方に流れる資金を削減し、代わりに国の税金の一部を地方税に変えていった。

 これにより、中央官庁の影響力は低下した。しかし、地方自治体間の格差は拡大した。

03年総裁選

 日朝平壌宣言で、小泉政権の支持率は向上した。

 03年、連立相手の保守党が自民党に合流。小池都知事はこの時自民党に復党している。また、73年定年制を導入。中曽根元首相や宮沢元首相を引退させた。

 03年、総裁選。橋本派(竹下派)の野中氏は独自候補を模索。しかし、橋本派の大部分が小泉再選を支持。野中氏は対立候補を出せず、小泉朱署は無投票で再選した。

 04年、橋本元首相の日歯連闇献金問題がおきた。

日朝平壌宣言

 02年、小泉首相は、北朝鮮を訪問。首脳会談を実施。翌年、一部の拉致被害者の帰国を達成した。

有事関連法と9・11

 小泉政権成立直後に、最大のテロ事件が発生。9・11NY同時多発テロが発生した。アメリカは、アフガンとイラクへ侵攻した。

 小泉政権は、特別措置法を制定。自衛隊は後方支援に参加した。

官邸主導

 橋本行革で、官僚に対して首相の権限が強化された。本来は橋本派(竹下派)がこれを利用して地元へ利益誘導するはずであった。しかし、政権交代によって、小泉首相がこの権限を利用することになった。

 小泉氏は、派閥の力を使わずに首相になった。そのため、派閥を無視して人事を行った。党執行部から橋本派(現在の竹下派)が一掃された。

  • 橋本派(竹下派)反主流派に
  • 谷垣派(岸田派)谷垣氏などが重要閣僚に
  • 堀内派(岸田派)反主流派に
  • 河野派(麻生派)麻生外相を中心に主流派へ

小泉政権成立

 01年4月、あまりの支持率の低さに総裁選の前倒しが行われた。この時、密室政治への批判の対応として党員票を3倍にした。

 幹部は、橋本元首相(橋本派、現在の竹下派)で進める予定であった。しかし、若手議員が小泉氏(森派、現在の細田派)を担ぎ上げた。小泉氏は党員票の大部分を獲得。総裁選に勝利した。

 この総裁選には、河野グループ(現在の麻生派)の麻生氏と江藤亀井派(現在の二階派)の亀井氏も出馬した。(亀井氏は党員票の結果をうけて辞退した)。

森首相と加藤の乱

 00年4月、小渕首相の死去で、森首相(森派、現在の細田派)が誕生した。総裁選も行われず密室で決まったため、低い支持率で始まった。さらに多くの失言でさらに支持率を低下。

 あまりの支持率の低さで00年11月、内閣不信任案が提出された。加藤氏(後の岸田派)が山崎氏(現在の石原派)とともに内閣不信任に向けて動き始めた。加藤氏は森派(現在の細田派)の小泉氏も誘ったが小泉氏は動かなかった。

 影の実力者の野中氏(小渕派、現在の竹下派)は、加藤派の切り崩しを実施。これにより、内閣不信任は否決された。

 加藤派(現在の岸田派)は、森首相支持派の堀内派と加藤支持派の谷垣派に分裂した。

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2010年代の自民党 安倍一強の時代

安倍政権

消費税増税

 19年07月、アベノミクス効果で、参議院選挙に勝利。同年10月、景気が回復したので延期されていた消費税増税(5%→10%)を実施した。

17年 小池劇場

 小池都知事は都民ファーストの会を発足。17年07月、都議選では自民党は都民ファーストの会に敗北。都議会第1党の地位を明け渡す。

 07月、麻生派が、山東派と合併。谷垣Gからも一部移籍。竹下派を抜いて自民党第二派閥になった。麻生派は、宏池会(現在の岸田派)に所属していた。しかし、95年に河野洋平らが離脱。これにより成立したが旧麻生派である。一方、山東派は、三木首相が立ち上げた派閥である。

 小池都知事は、都議選の勝利を受けて、希望の党を発足。民進党は希望の党への合流を決めた。

 しかし、政策の違いから一部の議員は合流に参加せず、立憲民主党を結党した。その中心が枝野党首である。

 10月、野党分裂状態で衆院選に突入。安倍自民党は漁夫の利を得て承知した。希望の党は大敗。自民党と明確な政策の違いや同情票で立憲民主党が野党第1党になった。

 翌18年09月、自民党総裁選挙。任期延長で安倍氏が出馬。石破氏を破り、首相を死守した。

安全保障の強化

アベノミクス

 安倍首相は、景気対策を行った。これがアベノミクスである。

  • 日銀と連携し、異次元の金融緩和を実施し、インフレ政策を進める。
  • 財政赤字を増やし、積極的な財政出動を実施。景気回復を優先し、消費税増税を2度延期した。
  • 観光立国などの成長戦略

安倍政権の成立

 12年9月、自民党総裁選で、安倍氏が勝利。谷垣総裁が任期満了で実施。有力は、石破氏(無派閥)、石原氏、安倍氏の3人であった。

 同年12月、衆院選で勝利。安倍政権が成立した。

 翌13年07月、参院選に勝利。連立政権で過半数を獲得。ねじれ国会が解消された。

 翌14年4月、野田首相の決定により、消費税が5%→8%へ増税。

 14年12月、衆議院を解散。安倍政権は3分の2の議席を確保した。

 15年09月、好調の安倍首相に対抗馬が出ず。無投票で安倍氏が再選した。

 この選挙をうけて、石破氏は無所属議員を集めて、石破派(水月会)を結成した。

 16年07月、参院選で単独過半数を確保。27年ぶりの出来事であった。

 翌17年03月、総裁の任期を2期6年から3期9年に延ばした。

民主党政権

野田首相と消費税増税

 菅首相退陣後、野田首相が誕生。どじょう内閣とよばれ高い支持率で始まった。

 しかし、震災不況の中で消費税増税を行おうとして国民の支持を失った。

 12年7月、自民党は政権奪還に向けて改憲試案を発表。

菅首相と東日本大震災

 10年7月、参議院選挙で与党民主党が敗北。責任をとり鳩山政権が退陣。菅首相が誕生。

 11年3月、東日本大震災が発生。菅首相はこの対応の悪さから支持率が低下。退陣をする。

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1850年代の日本(幕末)ペリー来航と開国

 1850年代、日本は江戸時代末期。ペリーが浦賀に来航。日本は激動の幕末を迎える。

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日本史

7世紀の日本(飛鳥時代)大化の改新

7世紀、日本は飛鳥時代。聖徳太子が冠位十二階を定めた。その後、乙巳の変で有力豪族蘇我氏が滅亡。天皇家を中心とした国家が始まった。