プラハの春
背景
チェコスロヴァキアは、ドイツとオーストリアに挟まれた中欧の国である。89年の東欧革命まで居産主義国であった。
チェコスロヴァキアはスターリン批判の受容がおくれた。
党改革の遅れによって、60年代から経済は停滞した。そのような状況下で、学生を中心とした民主化運動が起こる。
プラハの春
68年春、ドプチェク氏が第一書記に就任。民主化を進めた。
68年8月、ソ連のブレジネフ政権はワルシャワ条約機構軍をチェコスロヴァキアへ派遣。首都プラハを制圧。ドプチェク第一書記ら改革派を逮捕した。
ブレジネフ政権の弾圧
ソ連のブルジネフ書記長が、この派兵の根拠としたのが、制限主権論(ブレジネフ=ドクトリン)である。制限主権論とは、各国の利害よりも社会主義国全体の利益を重視するという考え方で、端的に言えば、東欧諸国はソ連の支持に従えという考え方である。
しかし、プラハの春は東欧諸国が1枚岩ではないことを露呈した。独裁色の強い東ドイツ、ポーランド、ハンガリーやブルガリアはソ連軍に同調してチェコスロヴァキアへ派兵した。しかし、ルーマニアなどブレジネフ政権に否定的な国もあった。
60年代後半の学生デモ
60年代後半、西側諸国でも各地でデモが発生した。フランスでは、学生デモによってド=ゴール大統領が退陣に追い込まれた。アメリカも、学生デモによってベトナム戦争を継続できなかった。
一方で、ソ連もプラハの春によって批判を浴びるようになった。
米ソともに冷戦を継続できるような状況下にはならなかった。これが70年代のデタントにつながる。
EUの前身、EC
67年、EUの前身組織であるEC(ヨーロッパ共同体)成立した。当初の加盟国は6か国で、西ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6か国である。
ECは、ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)、EURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)とEEC(ヨーロッパ経済共同体)が唐どうして成立した。
ベルリンの壁建設
第2次ベルリン問題
東ドイツでは、50年代厳しい労働ノルマが課されていた。一方で、西ドイツでは朝鮮戦争やインドシナ戦争の軍需によって大きく発展していた。そのため、東ドイツから西ドイツからの亡命者が多数発生した。
東ドイツ政府は、この対策として米英仏軍隊の西ベルリンからの撤兵を要求した。しかし、アメリカ政府はこれを拒否した。国際世論は、米ソ大戦の危機を恐れた。これを打開するため、61年、ソ連のフルシチョフ書記長とアメリカのケネディ大統領が首脳会談を開催。しかし、この交渉は決裂。
その後、東ドイツは西ベルリンを囲む形でベルリンの壁を建設した。この米ソ対立は翌62年のキューバ危機へつながる。