1970年代のドイツ プラント首相の 東方外交

1970年代

不況の70年代

 70年代に入ると、西側諸国は不況に入っていく。さらに、第四次中東戦争でオイルショックが追い打ちをかけた。西側諸国は、不況とインフレによって生活は困窮していた。

 西側諸国の首脳はこの状況を打開するため、75年にサミットを開催した。

 この当時に主流であったケインズ経済学は、この不況に対して有効な施策を打ち出すことができなかった。これが80年代の新自由主義経済学の台頭につながる。

デタント

 60年代後半から、アメリカを中心にベトナム戦争反対運動が展開されていた。一方で、ソ連側もプラハの春で反戦ムードが拡大していた。

 そのため、70年代には米ソ間で盛んに軍縮交渉が展開された。戦略兵器削減交渉(SALT)はこの時期に調印されている。このデタントは、79年のソ連のアフガニスタン侵攻まで続いた。

プラント首相の東方外交

社会民主党ブラント首相

 69年総選挙で、与党のキリスト教民主同盟が過半数割れ。社会民主党は連立与党を組みブラント首相を誕生させた。戦後初の社会民主党政権である。

 社会民主党は、ドイツの主要政党の一つで日本でいえば日本社会党(現在の立憲民主党?)にあたるリベラルな政党である。

東方外交

 ブラント首相は、東欧諸国との国交正常化政策を進めた。東欧諸国の一つ、ポーランドとの国交正常化の際には、ナチスドイツ時代のユダヤ人大虐殺に対して謝罪した。

東西ドイツが国際連合に加盟

 71年、東ドイツでは、ホネカー第一書記が就任。しかし、経済政策に失敗。支持を失っていた。ホネカー第一書記は、西ドイツのブラント首相に助けを求めた。

 72年、東西ドイツ基本条約が締結。東西ドイツは互いに国家承認を行った。これにより、翌73年東西ドイツは国際連合に加盟した。

拡大EC

 73年、ECにイギリスなど3か国が加盟した。イギリスのEFTAに参加していたオーストリアはこの時には、ECに加盟はしなかった。80年に入るとギリシャなど南欧3か国がさらに加盟した。

 EC(ヨーロッパ共同体)は、67年にフランス、西ドイツなど6か国が結成した組織である。EUの前身となる組織である。

 では、なぜこの時期にイギリスがECに加盟したのだろうか。イギリスは60年代から英国病不況に悩まされていたそのため、EC加盟に活路を見出そうとしていた。しかし、これに反対するものがいた。フランスのド=ゴール大統領である。これにより、60年代、イギリスはECに加盟することはできなかった。

 70年代に入ると情勢が変わった。一つは、不況である。イギリスのみにとどまっていた不況は、70年代に入ると西側諸国全全体に広がった。そのため、EC側もイギリスの加盟によってこの状況を打破しようとした。もう一つは、ド=ゴール大統領の退陣である。ド=ゴール大統領は68年の学生デモで退陣。これによりイギリス加盟に反対するものはいなくなった。