17世紀後半の朝鮮半島 党争で王権の強化

17世紀の東アジア

17世紀、東アジアには漢民族の明王朝から満州族の清王朝へ移行期に当たる。16世紀半ばに康熙帝が即位すると清王朝は全盛期を迎える。

 一方、日本では、江戸幕府が成立。16世紀初頭には鎖国体制に入る。16世紀半ばには文治政治へ移行。250年にわたる泰平の世を迎える。

 朝鮮王朝は、新興勢力清王朝に対してどのように立ち向かっていったのかを見ていきます。

粛宗(スクチョン)

党争で王権を強化

 粛宗は、74年に朝鮮国王に即位。1720年までの長期にわたり国王に君臨した。粛宗は、党争を利用して王権の強化に努めた。具体的には、国王に反対する派閥は政権から追放していった。

 このような中で3つの派閥が形成された。南人派(ナミン派)、老論派(ノロン派)、少論派(ソロン派)である。

長期政権 → 強い王権

激しい党争の時代

80年 南人派の追放→ 西人派政権へ
    西人派の分裂
    粛宗の外戚政治を批判 → 少論派
    粛宗の外戚政治に妥協 → 老論派(主流派)

91年 辛亥迫害
 南人派の分裂
  信西派
  攻西派

粛宗は、勢力の強い派閥を弱体化させるために
何度も政権派閥を変更した。これを「喚局」という。

南人派の信西派は、西人派(
両班 朝鮮の貴族→科挙で特別な地位を得る
 科挙の影響で、儒教に精通
 儒教 → 血縁関係を重視する社会

竹島問題

顕宗(ヒョンジョン)

59年に即位

大飢饉の発生

孝宗(ヒョジュン)

49年に即位

父の汚名をそそぎたい。
 → 清王朝との雪辱戦向けて軍備を増強
 → ロシアと戦う清軍に援軍をおくる

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