主要国の状況
ドイツ陣営
ドイツ
ナチスドイツが政権を掌握。ヒトラー総統の独裁政権がひかれる。
イタリア
ムッソリーニのファシズム党が政権を掌握。
日本
10年代の第一次世界大戦で国際連盟の常任理事国入り。しかし、30年代の満州事変で国際的に孤立。日米交渉に打開策を見出そうとしていた。
軟弱外交や長引く不況で、政治不信が拡大。政党内閣から軍部内閣へ移行する。公家の近衛文麿氏や軍人の東条英機などが首相を務めていた。
イギリス陣営
イギリス
世界中に植民地をもつ大英帝国。ただ、第1次世界大戦で疲弊。かつての勢いは亡くなっていた。協調外交のマクドナルド政権から、強硬外交のチャーチル政権は移行している。
3C政策で、インド、エジプト、南アフリカに拠点を置いていた。
アメリカ
第一次世界大戦で、世界最大の債権国になる。債権国の立場を利用して国際政治を動かしていく。当時の大統領は、F=ローズヴェルト氏である。
ソ連
第一次世界大戦中のロシア革命で、唯一の社会主義国になる。そのため、国際的に孤立していた。トップは、スターリン書記長である。
フランス
イギリス同様、広い海外植民地を持つ。しかし、第1次世界大戦では、早々にドイツの支配下に入ったため、イギリスほどの発言力はない。
45年7月 ポツダム会談
概要
5月にドイツが降伏。6月には国際連合憲章が採択された。そのような中、7月にベルリン郊外のポツダムで米ソ英がトップ会談を行った。
イギリスで政権交代
イギリスはこの会議の最中に総選挙が実施された。チャーチル保守党が敗北。アトリー労働党内閣が成立した。以後、アトリーがこの会議を引き継いだ。
ポツダム宣言
アメリカのトルーマンは焦っていた。8月にソ連の対日参戦が決まっていた。日本は4月に、老将の鈴木貫太郎内閣が成立。講和について模索を始めていた。トルーマン大統領は7月中に交渉を取りまとめたかった。
さらに、この時トルーマン大統領のもとに原爆完成の報が届いた。
トルーマンは、中華民国の蒋介石に承諾をとり、講和条件としてのポツダム宣言を発表した。
日本(鈴木貫太郎内閣)は、ソ連のスターリン書記長を仲介役とした講和交渉を模索していたため、これを黙殺した。講和を長引かせたいスターリン書記長は、当然ののらりくらりと交わした。そして、8月に多くの悲劇を生むことになった。
ドイツの戦後処理
ポツダム会談では、ドイツの戦後処理についてポツダム協定が締結された。
ポツダムでは、米ソ英仏の4か国分割統治とされた。しかし、画一的に統治されるようにベルリンに管理委員会が設置された。占領の重要な目的は、非軍事化とナチ党壊滅であった。ナチ党を壊滅するために民主化政策が行われた。
45年5月 ベルリン陥落
44年9月、英米軍は、ついにドイツへの侵攻を開始した。ライン川の興亡が続いたが、45年にやっとライン川を越えた。同じ頃、ソ連もドイツ領内への進軍を果たした。44年4月16日、ソ連軍はベルリンに到着。ベルリンの戦いが始まった。30日、ヒトラーは拳銃で自殺。その3日後(5月2日)、ドイツはついに降伏。
ベルリン陥落の直前、アメリカのF=ローズヴェルト大統領がなくなった。副大統領のトルーマン氏が後任についた。
45年2月 ヤルタ会談
45年2月、ソ連のヤルタで米英ソの首脳会談が行われた。戦況では、英米軍がライン川を渡り、戦場がドイツ国内に入ったころである。
この会談では4つのことが話し合われた。国際連合について、ポーランドの戦後処理、ソ連の対日参戦のタイミング。そして、ドイツの戦後処理であった。
国際連合については、昨年44年10月のダーバン=オークス会議で決裂していた。ヤルタ会談で拒否権問題などの決裂を解消。4月にサンフランシスコで再度協議されることが決まった。
ポーランドは、国内の共産党とイギリスの亡命政府のどちらが指導するかでもめていた。これについては民主的な選挙で決着をつけることで決まった。
ソ連の対日参戦は、ドイツ降伏の3か月後に行うことが決定された。ソ連はその見返りに、日本が持つ満州の利権と南樺太と千島列島のソ連への帰属が承認された。なお、この条項は秘密条項とされた。
ドイツの戦後統治では2つの問題があった。一つはフランスを参加せること。もう一つは、共同統治か分割統治かである。ソ連のスターリン書記長は、フランスの参加に反対であった。また、スターリン書記は圧倒的に支持率の高い共産党用いてドイツ全域の社会主義化を模索していた。結論としては、フランスを含めた4か国統治に決まった。分割統治については、折衷案が採用された。分割統治とするものの統一国家としての主権回復を目指す。そのため、重要政策では4か国で協議して決定することとされた。
ちなみに、このヤルタ会談のころにはF=ローズヴェルト大統領の健康状態は悪化し始めていた。
44年8月 パリ解放
44年6月、ノルマンディ上陸作戦を決行。英米両軍はフランスに上陸した。8月25日、パリは解放された。
一方、東欧諸国は、このころドイツからソ連へ続々と寝返っていた。2月のスターリングラードの戦いの敗北の情報を受けてのことと思われる。ルーマニア、ブルガリア、フィンランドがこの時期にドイツに宣戦布告した。
それは、ドイツ国内でも起こっていた。7月20日、反ナチス集団である黒いオーケストラによるヒトラー暗殺未遂事件が起こった。
44年7月、ブレトン=ウッズ会議。国際通貨制度について話し合われる。実態は、イギリスとフランスのブロック経済圏の統合である。
44年8月、ダーバン=オークス会議。国際連合憲章についての事務次官級の会議。話し合われるも決裂。翌年2月のヤルタ会談へ持ち越される。、
44年10月、イギリスのチャーチル首相とソ連のスターリン書記長がモスクワで会談。戦後のバルカン半島の統治について話し合われた。(パーセント協定)
43年11月 テヘラン会談
初の米ソ首脳会談
43年10月、米英外相がモスクワへ飛んだ。ここで、翌11月にテヘラン(イラン)で米英ソの初のトップ会談が行われることが決定された。
アジアをめぐる2つの会議
11月、日本の東条英機内閣は親日政権を集めて大東亜会議を開催。アジア民族の解放を訴え、戦局打開を画策した。
これを受けて、アメリカは、蒋介石をカイロへ呼んで、カイロ会談を実施。戦後のアジア戦略について話し合われた。
一方、スターリン書記長もアジアの共産党勢力と連携をとっていた。45年8月に、日本が降伏すると、この3つの勢力の対立が表面化していく。
テヘラン会談
カイロ会談が終結すると、インドとソ連の間にあるイランのテヘランで会談が行われた。
この会談では3つの論点があった。1つ目は、英米連合軍の上陸地点である。イギリスは、北アフリカの部隊をバルカン半島に上陸させることを希望した。一方でソ連は、イギリス本土からフランスに上陸させて挟み撃ちにする方法であった。結論としてはソ連側の主張がみとめられ、ノルマンディー上陸作戦が行われた。
2つ目の論点は、ソ連の対日参戦である。これは、英米のフランス上陸を条件にソ連は承諾した。
3つ目は、ポーランドとソ連の国境問題である。こちらは決裂した。
43年7月 イタリア内戦
43年7月、英米両軍は、シチリア島を占領。これを受けてイタリア国内ではクーデターが発生。25日、ムッソリーニは、失脚。さらに逮捕された。9月8日、イタリアは米英に降伏した。同9月15日、ドイツ軍の支援で、ムッソリーニが脱走。北イタリアに「イタリア社会共和国」を建国した。10月13日、イタリア王国は、ドイツに宣戦布告した。
43年8月、カナダのケベックで英米が会談。フランス上陸作戦について話し合われた。
43年2月 ドイツ軍、冬将軍に敗北
43年1月、英米はイタリア侵攻について会議を行う。場所は、アフリカ北西部モロッコのカサブランカである。
43年2月2日 スターリングラードの戦いで、ドイツ軍がソ連軍に降伏
42年夏 戦局は転換
42年6月、日本はミッドウェー海戦で敗北。日本軍はここから劣勢になる。
42年8月、ドイツはロシア南部のスターリングラードへ侵攻した。スターリングラードの戦いである。
42年7月、米英はロンドンで北アフリカ戦争について協議した。翌8月、チャーチルはモスクワへ渡り、ソ連のスターリン書記長と会談した。
41年12月 アメリカへ宣戦布告
41年12月、日米交渉が決裂。12月8日、真珠湾攻撃が行われた。11日、ドイツとイタリアは、アメリカに宣戦布告。アイゼンハワーを率いるアメリカ軍がヨーロッパへ渡った。
真珠湾攻撃とマレー海戦の結果を受けて、イギリスのチャーチル首相は極秘に渡米。ワシントンで、米英首脳会談が行われた。暗号名を使ってアルカディア会談と呼ばれている。
41年6月 独ソ戦始まる
かつて、ナポレオンは、ロシアの密貿易でイギリスを占領することができなかった。そのため、冬将軍が到来する前にソ連をたたきつぶそうと6月、ソ連への侵攻を決めた。バルバロッサ作戦である。
ヒトラーにはもう一つの目的があった。コーカサス地方の油田である。コーカサス地方は黒海とカスピ海にある山岳地帯である。ここは古くから知られる油田である。
バトルオブブリテンが継続できなかった最大の理由は、燃料の不足である。ドイツはこの油田を押させることでイギリス侵攻を再開しようとしていた。
独ソ戦は当初、4月に始まる予定であった。しかし、ユーゴスラヴィアのクーデターで2か月遅れた。これが後の致命傷になる。ソ連はこの間に日ソ中立条約を締結。対独戦の準備は整っていた。
独ソ戦が始まるころになると、ユダヤ人の迫害は本格化した。ユダヤ人が多く住むポーランドを併合することで強制収容所に連行されるユダヤ人が拡大した。このころから、集団殺戮『ホロコースト』が行われるようになった。ちなみにアウシュビッツ強制収容所はドイツではなくポーランドにある。
アメリカは、日米交渉に難航していた。そのため、国際世論を味方につけるため、イギリスとともに8月大西洋憲章を発表した。この中身は、1月の一般教書演説「四つの自由」がある。ソ連のスターリンはこれに飛びついた。ここから、米英ソvs日独伊の戦いが始まる。
41年4月 舞台はヨーロッパの火薬庫、バルカン半島へ
ドイツは、同盟国いたイタリアのためにバルカン半島や北アフリカへ軍隊を送った。東欧諸国では、ドイツと同盟を結んだ。そのような中、ユーゴスラヴィアでクーデターが発生。4月6日、ドイツ軍は、同盟国のルーマニア、ブルガリアとともにユーゴスラヴィアへ侵攻。クーデターは制圧された。10日、イタリアの要請に基づいてギリシャへ侵攻。当時、ギリシャはイギリスの支援で何とか持ちこたえていた。イギリス軍はエジプトまで撤兵を余儀なくされた。
この戦いで、ドイツ軍は、バルカン半島全域を押さえることに成功した。
一方、そのころソ連は日米交渉に苦慮している日本政府と日ソ中立条約を締結。ソ連はヨーロッパへ全精力をつぎ込めるようになっていた。
40年11月、F=ローズヴェルト大統領が異例の3選を果たす。1月、一般教書演説で「四つの自由」をかかげ、日独伊との臨戦態勢を強調する。その実情は、日本が持つ中国利権であった。
一方、アメリカでは、武器貸与法が成立。武器貸与法は、日独伊と交戦中の国に武器を貸与する法律であった。表向きはイギリスを支援するためのものであった。しかし、実態は中国利権を求めて蒋介石(中華民国)に武器を貸与するための法律であった。さらに、6月に独ソ戦が始まるとソ連もその対象となった。
40年9月 日独伊三国同盟
40年9月20日、日独伊三国同盟が成立。日本は、自由フランスが抑えているインドシナ北部へ進駐した。
40年7月 空中戦バトルオブブリテン
7月10日、ドイツは連合国の中心にイギリスへ向った。ここにドイツ空軍とイギリス空軍による空中戦が展開された。これをバトルオブブリテンという。
イギリスは、ドイツ軍の空襲を受けるなど被害は甚大であった。しかし、アメリカの経済支援があり、イギリスを守り抜くことができた。10月、ドイツ軍はイギリス上陸をあきらめた。
40年6月 フランス占領
39年5月28日、ベルギーが降伏。ベネルクス3国はナチスドイツの支配下に入った。英仏両軍は、イギリス本土へ辛うじて退却。フランス本土は少数の軍隊で守らなくてはならなくなった。ドイツ優勢とみるや、中立を保っていたイタリアのムッソリーニは英仏に宣戦布告した。
翌6月10日、フランス政府はパリをドイツへ譲渡。政府機能は、南フランスのボルドーへ移した。14日、ドイツ軍はパリへ無血入城を果たした。16日、フランスのペタン首相は、ドイツと休戦協定を結んだ。ペタン首相は、南フランスに親独のヴェシー政府を樹立した。
一方で、イギリスへ亡命したフランス軍はド=ゴールを中心に自由フランス国を建国。海外領土は自由フランスが押さえていた。
40年春 北欧へ侵攻
40年4月には、北欧のデンマーク、ノルウェーが降伏。5月にはベネルクス3国(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)が降伏した。
39年秋 第二次世界大戦勃発
第二次世界大戦前の勢力図は、イギリス・ドイツ vs ソ連という状況であった。
39年8月23日、ドイツは、ソ連と独ソ不可侵条約を締結した。イギリスはソ連の防波堤として、ナチスドイツを支援していた。これにより、イギリスは大きく転換させることになる。
ドイツは、ポーランドに領土を要求。9月1日ドイツはポーランドへ侵攻した。3日にイギリスが、4日はフランスがそれぞれドイツに宣戦布告。ここに第二次世界大戦が勃発した。
しかし、イギリスもフランスも戦争準備をしていたわけではなかった。ドイツ軍は1か月でポーランド全土を制圧した。
この時、多くのユダヤ人が難民としてリトアニアへ入った。リトアニアで彼らを救った一人に杉浦千畝氏がいる。かれは、ユダヤ人に対して次々とビザを発給。ドイツからの出国ができた。おのため、このビザは「命のビザ」と呼ばれた。