1940年代前半の イタリア 第二次世界大戦と イタリア

前回の復習 1940年代前半のイタリア

 第二次世界大戦が終結すると共産党などが参加した挙国一致内閣が成立。その後の選挙で共産党が躍進。王政は停止した。これに脅威を感じたアメリカは、キリスト教民主主義党を支援。その一環としてマーシャルプランが発表された。

 さて、今回から、大戦期に入っていきます。イタリアの大戦期といえばムッソリーニのファシスト党である。今回は第二次世界大戦とファシスト党の崩壊過程を見ていきます。

ムッソリーニ処刑

挙国一致内閣へ

 43年、ムッソリーニが逮捕されると、多くの政党が復活した。キリスト教民主主義党もこの時に復活した。初代党首がガスペリである。ガスペリは、パドリオ政権が失脚すると、党首として閣僚になった。

 45年12月、キリスト教民主主義党首のガスペリはイタリア社会党、イタリア共産党とともに挙国一致内閣を発足させた。

ムッソリーニの最期

 45年4月、ソ連軍はベルリンへの総攻撃を開始した。ヒトラーも病気を理由に国民の前に顔を出さなくなった。ヒトラーが最期の日は近づいていた。

 同じ頃、ムッソリーニも最期の日が近づいていた。連合軍はムッソリーニ拠点がある北イタリアへ進軍した。同じ頃、北イタリアの共産党ゲリラ部隊(バルチザン)も一斉に放棄した。25日、ムッソリーニは共産党ゲリラ部隊によって逮捕。27日、処刑された。そして、30日、ドイツのヒトラーも自殺した。これにより、ヨーロッパでの第二次世界大戦は終結した。

 その後も、アジア太平洋地域での戦闘は続いた。8月、日本の降伏により第二次世界大戦は完全に終結した。

連合軍、ローマ解放

 44年6月、連合軍がローマを奪還。イタリア国王とパドリア将軍はローマに帰還した。しかし、ローマを放棄したことで、国王は国民の信を失っていた。そのため、パドリオ将軍はローマに帰還すると首相を辞任した。

ムッソリーニ vs 米英

ドイツとムッソリーニ

 第二次世界大戦後半、イタリアは分裂状態にあった。南部の国王派と北部のムッソリーニ派である。

 ドイツ軍に救出されたムッソリーニはイタリア北部に国家を建設した。拠点をミラノに置いた。

パドリオ政権

 一方、南部では、国王派のパドリオ政権が存在した。ドイツ軍の侵攻でローマを捨て南部に拠点を置いた。

 パドリオ政権は、英米に降伏し、ドイツに宣戦布告している。

共産党(パルチザン)

 さらに、イタリアにはもう一つ軍事勢力があった。それがソ連の支援を受けた共産党(パルチザン)である。彼らは北部の各地で反ムッソリーニのゲリラ活動を展開していた。

イタリア国王、ローマから逃亡

 43年、パドリオ政権が成立するとドイツ軍はイタリアへ派兵した。そして、ムッソリーニを救出した。

 ドイツ軍の進軍をうけて、イタリア国王とパドリオ将軍はローマを脱出した。この行為により、国王とパドリオ将軍は国民の支持を失った。これが共産党の躍進や王政の停止につながる。

ドイツに宣戦布告

 43年7月、英米連合軍がシチリア島に上陸。これを受けてローマでクーデターが発生。ムッソリーニが逮捕され、パドリオ政権が成立した。パドリオ政権は、英米連合軍と即時休戦した。
 9月、パドリオ政権は降伏文書に調印。10月、ドイツへ宣戦布告した。

英米、シチリア上陸

 41年12月、太平洋戦争が勃発。これにより日本とアメリカが本格的に参戦した。42年6月、ワシントンで米英首脳会談が開催。11月、英米は、フランス領モロッコ・アルジェリアへ侵攻した。

 43年1月北アフリカのモロッコで米英首脳会談を開催。英米はドイツ陣営(枢軸国)に対して無条件降伏するまで、徹底的に戦うことが決定された。43年5月、北アフリカ戦線が英米連合軍の勝利で終わった。そして、7月、英米連合軍はイタリアのシチリア島に上陸した。 

日独伊三国同盟

独ソ戦と太平洋戦争

 41年4月、日米交渉中の日本は日ソ不可侵条約を締結した。

 41年6月、バルカン半島を統一したヒトラー(ドイツ)はソ連に宣戦布告した。独ソ戦の始まりである。この時、日独伊三国同盟の例外条項のため日ソ中立条約は有効であった。

 そして、41年12月、日米交渉は決裂。日本はアメリカ・イギリスに参戦した。これにより、アメリカは第二次世界大戦に参戦した。

vsユーゴスラヴィア

 40年10月、イタリアはギリシャへも侵攻。しかし、失敗した。

 ヒトラーは、イタリアの敗戦で危機感を持った。そのため、バルカン諸国に対したドイツ陣営に入ることを要請した。そして、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、ユーゴ王国の4か国がこれに同調した。

 しかし、41年3月、反ドイツのセルビア人が反乱を起こした。ヒトラー(ドイツ)は、ソ連侵攻を延期。軍隊を反乱鎮圧に差し向けた。翌4月にこれは鎮圧された。

 その後、ヒトラーはギリシャを征服。バルカン半島を統一した。

北アフリカの戦い

 フランスの陥落により、北アフリカはモロッコからリビアまでドイツイタリア陣営側になった。そのため、イギリス植民地のエジプトは孤立した。40年9月(日独伊三国同盟締結の少し前)、イタリアはエジプトへ侵攻した。

 しかし、この戦争は失敗。12月、イタリア’領リビアはエジプトの侵攻を受けた。イギリス(エジプト)のイタリア領リビア侵攻は翌41年まで続いた。しかし、ヒトラーのバルカン半島侵攻に援軍を送るため、軍隊は縮小された。

 劣勢のイタリア(リビア)に、ドイツのヒトラーは援軍を派遣した。イギリス(エジプト)の軍隊の縮小もあり、イタリア(リビア)は再び優勢になった。

日独伊三国同盟

 40年9月、日独伊三国同盟を締結した。内容は以下の通り怒鳴る。

  • ・独伊のヨーロッパアフリカ地域での指導的地位と日本のアジア太平洋地域での指導的地位を相互に承認する。
  • いずれか一か国が現在交戦中ではない国に攻撃されたときはその他の国はこれを援助する。
  • ただし、ソ連はこの条約の対象外とする。

 この文面から、現在交戦中のイギリスや例外条項となったソ連は対象外ということは明らかである。この条約はアメリカ参戦を抑止するための条約であった。

 日独伊は、もともどソ連を仮想敵国とする日独伊防共協定を締結していた。しかし、39年の独ソ不可侵条約で事実上無効化されていた。

 ただ、この協定の思惑に少しずれがあった。

 ヒトラーは、日独伊三国同盟を利用してイギリスと和解。対ソ戦への準備をしようとしていた。

 一方、日本は、日米交渉に難航していた。そのため、日独伊にソ連を加えて、アメリカとの交渉を優位に進めようとしていた。

 この思惑のずれは41年に表面化した。4月、日本は日ソ中立条約を締結。しかし、6月、ドイツはソ連に宣戦布告した。

英仏に宣戦布告

 39年、ドイツのポーランド侵攻で第一次世界大戦が始まった。イタリアは日独伊防共協定があったが、独ソ不可侵条約で無効になっていた。そのため、開戦当初のイタリアは中立の立場をとった。

 40年6月、ドイツがフランスへ侵攻。イタリアはドイツ優勢と見るやフランス・イギリスに宣戦布告した。その後、パリは陥落。フランスのヴェルシー政権が誕生した。