1900年代、ドイツはイギリスと対立していくようになる。今回はモロッコ事件をベースに、1900年代のドイツとヨーロッパの歴史をみていく。
モロッコ事件
第二次モロッコ事件
第一次モロッコ事件で、優越権を拡大したフランスはモロッコの内乱を続けて関与度を高めていった。これに不満を持ったのが新たな市場を求めていたドイツである。
11年、ドイツは再び軍艦を派遣した。これに対し、英仏協商に基づいてイギリスが警告。戦争までに発展せず、平和裏にドイツは撤退した。この事件をきっかけにフランスはモロッコを保護国にした。
オーストリアのボスニアヘルツェゴビナ併合
オーストリアは、1878年のベルリン会議でオスマン帝国からボスニアヘルツェゴビナの統治権を獲得した。
ボスニアヘルツェゴビナには、ボスニア人だけでなくセルビア人やイスラム教徒が居住していた。
08年、オーストリアはボスニアヘルツェゴビナを併合した。これにセルビアとロシアが反発。バルカン同盟結成のきっかけとなった。
英露協商
日露戦争・第一次モロッコ事件が終結すると、07年英露協商を締結。英露の勢力圏は確定した。これにより、ヴェルヘルム2世包囲網が完成した。
第一次モロッコ事件
フランスは、05年モロッコ国王に改革案を提案した。これは前04年の英仏協商に基づいた。ドイツ皇帝ヴェルヘルム2世はこれに待ったをかけた。モロッコへ軍艦を派遣した。モロッコ皇帝もヴェルヘルム2世の支援を背景にフランスの要求を拒否した。
05年は、日露戦争の真っただ中にあって、ロシアが軍艦を派遣できないと踏んでいたからである。事実、ロシアのバルティック艦隊はこの時日本海へ向っていた。
しかし、05年には日露戦争が停戦。8月にはポーツマス会議が始まった。ここでヴェルヘルム2世は、フランスだけでなく、イギリス・ロシアを敵に回していたことを知ることになる。
フランスも戦争に踏み切る余裕はなく、戦争までには至らなかった。貿易の機会均等とモロッコ国王の主権尊重は認められたものの、モロッコの警察はフランス・スペインが担うようになった。
この事件で第一次世界大戦の構図が事実上明確になった。
英仏協商
04年、日露戦争が勃発した。日本の同盟国のイギリスとロシアの同盟国のフランスは英仏協商を締結。両国は表向き中立を保った。この協商でイギリスとフランスは互いの勢力圏を定めた。アフリカでは、イギリスのエジプトの植民地化とフランスのモロッコの植民地化を互いに承認した。
3B政策
では、どうしてイギリスはドイツを敵視していたのだろうか。これはドイツの3B政策にある。ドイツは帝国主義に出遅れた。アジアの拠点は、東アジアと太平洋にしかなかった。
ヴェルヘルム2世は、アジア影響力を持つためにパートナーを選んだ。それが瀕死のオスマン帝国であった。
義和団事件
00年6月、ドイツの勢力圏であった清王朝(中国)の山東省に拠点を置いていた義和団が反乱を起こした。義和団と白蓮教という宗教団体の一派であり、反キリスト教運動を展開した。
義和団は、北京を占領。日本とドイツの在清大使を殺害した。清王朝は、最初鎮圧に向かったが、義和団が強まると、義和団を使った列強各国に宣戦布告した。
震源地である山東省を植民地にしているドイツは単独で鎮圧することはできなかった。イギリスやフランスなどによる8か国連合で義和団の乱を鎮圧した。本来、このような戦争で主力になるのはイギリスである。しかし、当時のイギリスはブーア戦争の真っただ中であった。そのために主力になったのは、ロシアと日本であった。この2か国が後に日露戦争を展開することになる。