ナポレオン三世は、国内産業支援を進める一方、対外戦争に積極的に参加した。67年に万国博覧会を開催している。
しかし、このころになるとナポレオン三世の栄光に陰りが見え始める。メキシコ遠征に失敗。ベトナム遠征には成功しているものの以降回復にはつながらなかった。
また、英仏通商条約により、イギリスから工業品が流入。国内産業に大打撃を与えた。このころ、プロイセンでは保護貿易政策がとられイギリス工業品の流入の影響はなかった。
1870年、普仏戦争に敗北。これによりナポレオン三世の時代(第二帝政)が終わる。
1860年代のフランス
60年、英仏通商条約 保護貿易→自由貿易
61年、フランス、イギリス、スペイン連合軍がメキシコ出兵
→メキシコ内戦に勝利したフアレスが外国債の利払を停止
これが原因でメキシコ出兵が始まる。
→ 当時、アメリカは南北戦争の最中のため、介入できず。
→イギリス、スペインは早々に撤兵。
フランスの単独出兵になる。
61年、イタリア王国成立
62年、ユンカー(地主層)出身のビスマルクがプロイセン首相になる。
63年、フランス、東南アジアのカンボジアを保護国化
当時のカンボジアは、東からベトナム、西からシャム(のちのタイ)からにらまれていた。
そのため、南ベトナムに拠点を築き、北ベトナムと交戦中のフランスと結びついた。
63年、メキシコ、フランス軍が首都メキシコシティを陥落
64年、ロンドンで社会主義勢力が第1次インターナショナルを結成。
64年、労働組合が合法化 → フランス革命で労働組合の結成を禁止
64年、ジュネーブでクリミア戦争のナイチンゲールの活躍により国際赤十字が設立。
イタリア統一戦争に従軍したスイス実業家デュナンが提唱。
64年、メキシコ、ナポレオン三世、オーストリア皇帝の弟をメキシコ国王に迎える。
66年、プロイセン=オーストリア戦争が勃発。
ナポレオン三世フランスは、プロイセン側で参戦。
プロイセンが勝利する。
67年、15年のウィーン議定書で成立したドイツ連邦を解体。北ドイツ連邦が成立。
バイエルンなどの南ドイツ諸邦とも同盟を結ぶ。
ルクセンブルクが永世中立国として独立。
イタリア王国は、ヴェネチアを併合
敗戦国、オーストリアは、オーストリア=ハンガリー2重帝国へ
67年、パリで万国博覧会を開催。
日本からは、徳川幕府と薩摩藩がそれぞれ出展。
このころ、フランスで恐慌が起こる。
67年、メキシコ、フランス軍メキシコから撤兵
→ゲリラ戦によるフランス財政の圧迫と
南北戦争が終結したアメリカの介入が要因
メキシコ皇帝にも帰国を促したが拒否。そのまま処刑された。
→メキシコは、フアレス政権が復活した。
68年、スペインで王位継承問題が発生。プロイセン(のちのドイツ)とフランスが対立
69年、エジプトはフランス財政支援によりスエズ運河を完成する。
69年、北アフリカのチュニジアが財政破綻。
チュニジアは1705年にオスマン帝国から独立。
イギリス・フランス・イタリアの共同管理下に置かれる。
普仏戦争に敗北
70年7月、エムス電報事件→フランスで反ドイツ世論が形成。
70年7月、ビスマルク首相のプロイセンとナポレオン三世のフランスが開戦。
70年9月、ナポレオン三世はプロイセン軍に拿捕されると、パリで蜂起が起こし帝政は崩壊した。
イギリス → 不介入
ロシア → 南下政策を再開
イタリア →フランス軍の撤退を受け、 ローマ教皇領を併合
60年代のフランス経済
アメリカとオーストラリアでゴールドラッシュ。フランスでは株式投資のブームが起こる。ナポレオン三世の政策により、鉄道網が整備。このころから輸出用ワインが製造され始める。農村から都市への移住も進んだ。このころになると手工業的な産業は淘汰され、資本の集中が進んだ。このころ、フランスの産業革命も完成する。
67年に恐慌が始まる。英仏通商条約によるイギリス製工業製品の流入が要因である。
これが、ナポレオン三世の失脚の要因となる。このあと、70年代の不況をうけて80年代の植民地獲得競争へ突き進む。