1860年代、日本では大政奉還が行われ、江戸時代が終わった。ちなみに、70年代に岩倉使節団が欧米を回ったが、イギリスで岩倉使節団を迎えたのは、自由党のグラッドストンである。
世界情勢としては、アメリカでは南北戦争が勃発。フランスではナポレオン3世の時代であった。
この頃のイギリスは、パックス=ブリタニカの全盛期である。第二回選挙法改正で都市労働者が選挙権を獲得。政党も世代交代。グラッドストンとディズレーリーの時代となった。
前回の復習 70年代のイギリス
70年代のイギリスを見るうえで重要なことは2人の政治家である。自由党のグラッドストン首相と保守党のディズレーリー首相である。グラッドストン首相は労働者にやさしい政治を行った。その象徴が初等教育法である。一方で、ディズレーリー首相は、帝国主義政策を進めた。その象徴はスエズ運河買収である。70年代後半に入ると、不況がはじまりビクトリア時代が終焉する。
今回は、ポイントは2点である。グラッドストンはなぜアイルランド問題に熱心なのか。グラッドストンは、なぜ労働者にやさしい政治をおこなったのかである。そのキーになるのが第二回選挙法改正である。
パックス=ブリタニカ
50年代から70年代は、イギリスの黄金期である。圧倒的な工業力(経済力)と海軍力で他国を圧倒していた。63年にはロンドンに地下鉄が開通した。
圧倒的な工業力を支えたのは、世界初の産業革命と、金本位制である。これにより圧倒的なイギリスは圧倒的な資本力を持った。一方で、海軍力を支えたのは蒸気船である。これは1920年代にイギリスで発明された。圧倒的な資本力でイギリス海軍は大量の軍艦を製造した。
59年 自由党パーマストン内閣
戦争大好き、ナポレオン3世
英仏通商条約で関税を大幅引き下げ
ナポレオン3世とパーマストン首相の関係は良好であった。
60年、英仏通商条約が締結された。これによりフランス産の安い農産物がロンドンへ入手した。これは都市の資本家(経営者)が支持基盤の自由党政権だからできたことである。これが保守党政権であれば当然拒否されたであろう。
一方で、フランスでは工業化が進まず、資本はほとんど海外投資へ向った。エジプトのスエズ運河やロシアのシベリア鉄道はフランス資本で建設された。
61年 アメリカで南北戦争勃発
60年 リンカン大統領誕生
当時、アメリカは、太平洋岸のカリフォルニアまで領土を拡大し、50年代には日本と日米修好通商条約を締結した。このころ、アメリカは北部と南部は貿易政策で対立していた。それはイギリスの安価な工業製品に対する政策である。北部は工業地帯であるため、保護貿易(関税引き上げ)を求めた。一方、南部は工業品原料である綿花の産地であるため、自由貿易(関税引き下げ)をもとめた。
60年大統領選挙で、北部のリンカンが当選した。これに南部の人たちが反発。アメリカからの独立を宣言した。これにより、南北戦争が勃発した。
当時、南北戦争は南部有利で進んだ。その理由は、イギリス(パーマストン)とフランス(ナポレオン3世)が支援したからである。その背景は当然南部の綿花(綿織物の原料)である。
しかし、リンカン大統領は、ホームステッド法や奴隷解放宣言で西部の開拓民や黒人奴隷を味方につけて南北戦争に勝利。南部の独立を阻止した。
これにより、アメリカは工業国として発展。70年代後半になると工業生産量はイギリスを上回った。70年代後半のヨーロッパ不況の原因となった。一方で南北戦争の被害は大きく帝国主義戦争では出遅れた。外交面でアメリカが発言力を高めるのは第一次世界大戦後の1920年代のことになる。
メキシコ出兵
ナポレオン3世は、アメリカが南北戦争でメキシコへ介入できないのを好機ととらえた。このタイミングでメキシコ出兵を行った。ナポレオン3世は、ハプスブルク家をメキシコ皇帝に担ぎ、スペイン、イギリスを誘ってヨーロッパ連合軍として参戦した。当然、パーマストン首相はこれに応じてフランスのメキシコ出兵を支持した。
しかし、メキシコ出兵は失敗した。これにより、ナポレオン3世は支持率を大きく低下させた。
綿花価格の高騰でインドの重要性が高まる。
南北戦争は、ヨーロッパ経済にも大きな影響を与えた。アメリカ産綿花の供給がストップしたのである。当時、工業品の主要産品は綿織物であった。そのため、綿花の価格は高騰した。イギリス商人はこぞって、インドへ向かいインド産綿花を買いあさった。これによりインドは好景気となった。一方で、ロシアは、綿花を求めて綿花の産地中央アジアへ侵攻した。
64年 ロンドン 第一インターナショナル(国際的労働者団体)
48年革命で労働運動は一時沈静化していた。しかし、50年代後半に恐慌により、労働は再度活発化した。64年ポーランドの独立支援を求めるも徳的で第一インターナショナルが発足した。
これにより、労働者の発言力は強まり、第2回選挙法改正につながった。
66年 保守党ダービー首相、都市労働者に参政権
65年、パーマストン首相がなくなり、ラッセル首相が政権を引き継いだ。ラッセル首相の政治課題は、第二回選挙法改正となった。第2回選挙法改正の目的は労働者への選挙権の拡大であった。
ラッセル首相は、選挙権改正に尽力した。しかし、その内容は不十分なものであった。そのため、ラッセル首相は選挙法改正を実現できなかった。それを理由にラッセル首相は退陣に。
67年 第二回選挙法改正
保守党ダービー首相は、ラッセル首相案よりもさらに選挙権を拡大した内容で選挙法を改正した。これにより都市労働者が多く参政権を得た。都市労働者の敵、産業資本家を支持基盤にする自由党を苦しめる予定であった。
ディズレーリー保守党とグラッドストン自由党
このころ、保守党でも自由党でも世代交代が行われた。保守党のディズレーリーと自由党のグラッドストンである。この実機になると2大政党制が確立された。
世代交代を受けて、ディズレーリー保守党政権が成立した。しかし、少数与党のため、すぐに総選挙を行った。
68年 グラッドストン自由党首相とアイルランド問題
グラッドストン自由党党首は、68年総選挙で支持を獲得するためある公約を出した。アイルランド国教会廃止法案である。グラッドストンはこの法案でアイルランドの支持を獲得しようした。グラッドストンはこの選挙に勝利してグラッドストン自由党政権が成立した。
なぜ、グラッドストンはアイルランド問題を持ち出したのだろうか。68年総選挙は自由党にとって苦戦が予測された。それは、第二回選挙法改正で選挙権を得た都市労働者の存在である。そのため、都市労働者の支持を集める必要があった。そこで目を付けたのがアイルランド問題であった。
当時、アイルランドはイングランド地主に高い地代を支払っていた。もし、アイルランド農民がイングランド地主を追いやったら、アイルランドの安い農産物がイングランドに入ってくる。それを利用してこの総選挙に打って出た。
アイルランド問題で見る自由党と保守党
保守党にとって、アイルランド問題は弱点であった。保守党の支持層は地主階級である。その多くはアイルランド地主でもあった。当然、アイルランド問題は彼らの権利をはく奪することになる。グラッドストンは底をついたのである。
一方、自由党の支持基盤は都市の資本家(経営者)である。そのため、アイルランド人の問題の解決は、農産物価格の下落につながり、大いに歓迎すべき事項であった。
69年。グラッドストン首相は公約通りアイルランド国教会を廃止しした。これにより、アイルランド人は教会税を支払う必要がなくなった。
69年 普仏戦争回避のために尽力→ 「栄光なる孤立」へ
自由党は平和外交を推し進めようとしていた。
フランスとプロイセンは開戦直前になっていた。そこでグラッドストン首相はフランスとプロイセンに軍縮を提案。しかし、ドイツのビスマルクはこれを拒否した。
これが原因で、ドイツとイギリスの関係は悪化した。そのため、普仏戦争後の70年代に成立した三帝同盟にグラッドストン(イギリス)は参加しなかった。「栄光なる孤立」ここに始まった。
69年 スエズ運河完成→ エジプトの植民地化
フランスのナポレオン三世は、エジプトのスエズ運河を完成させた。これにより、フランスとインドの距離は急速に近くなった。これにより、80年代以降イギリスはエジプトへの関与を深めていく。
70年 アイルランド土地改革法案→ 自由党崩壊の始まり
当時、アイルランド人の大部分は小作農であった。その地主の大部分はイングランド人であった。アイルランドの小作農は、イングランドの地主に苦しめられていた。この法案で、アイルランド人の小作農の地位は向上した。しかし、欠陥があり実効性はそれほど大きくなかった。
80年代、グラッドストンはこの法案の改正を行おうとした。しかし、これにより自由党は分裂。グラッドストンは退陣し、ディズレーリー保守党政権が復活した。帝国主義の始まりである。
前回の復習 70年代のイギリス
70年代のイギリスを見るうえで重要なことは2人の政治家である。自由党のグラッドストン首相と保守党のディズレーリー首相である。グラッドストン首相は労働者にやさしい政治を行った。その象徴が初等教育法である。一方で、ディズレーリー首相は、帝国主義政策を進めた。その象徴はスエズ運河買収である。70年代後半に入ると、不況がはじまりビクトリア時代が終焉する。
今回は、ポイントは2点である。グラッドストンはなぜアイルランド問題に熱心なのか。グラッドストンは、なぜ労働者にやさしい政治をおこなったのかである。そのキーになるのが第二回選挙法改正である。
パックス=ブリタニカ
50年代から70年代は、イギリスの黄金期である。圧倒的な工業力(経済力)と海軍力で他国を圧倒していた。63年にはロンドンに地下鉄が開通した。
圧倒的な工業力を支えたのは、世界初の産業革命と、金本位制である。これにより圧倒的なイギリスは圧倒的な資本力を持った。一方で、海軍力を支えたのは蒸気船である。これは1920年代にイギリスで発明された。圧倒的な資本力でイギリス海軍は大量の軍艦を製造した。
59年 自由党パーマストン内閣
戦争大好き、ナポレオン3世
英仏通商条約で関税を大幅引き下げ
ナポレオン3世とパーマストン首相の関係は良好であった。
60年、英仏通商条約が締結された。これによりフランス産の安い農産物がロンドンへ入手した。これは都市の資本家(経営者)が支持基盤の自由党政権だからできたことである。これが保守党政権であれば当然拒否されたであろう。
一方で、フランスでは工業化が進まず、資本はほとんど海外投資へ向った。エジプトのスエズ運河やロシアのシベリア鉄道はフランス資本で建設された。
61年 アメリカで南北戦争勃発
60年 リンカン大統領誕生
当時、アメリカは、太平洋岸のカリフォルニアまで領土を拡大し、50年代には日本と日米修好通商条約を締結した。このころ、アメリカは北部と南部は貿易政策で対立していた。それはイギリスの安価な工業製品に対する政策である。北部は工業地帯であるため、保護貿易(関税引き上げ)を求めた。一方、南部は工業品原料である綿花の産地であるため、自由貿易(関税引き下げ)をもとめた。
60年大統領選挙で、北部のリンカンが当選した。これに南部の人たちが反発。アメリカからの独立を宣言した。これにより、南北戦争が勃発した。
当時、南北戦争は南部有利で進んだ。その理由は、イギリス(パーマストン)とフランス(ナポレオン3世)が支援したからである。その背景は当然南部の綿花(綿織物の原料)である。
しかし、リンカン大統領は、ホームステッド法や奴隷解放宣言で西部の開拓民や黒人奴隷を味方につけて南北戦争に勝利。南部の独立を阻止した。
これにより、アメリカは工業国として発展。70年代後半になると工業生産量はイギリスを上回った。70年代後半のヨーロッパ不況の原因となった。一方で南北戦争の被害は大きく帝国主義戦争では出遅れた。外交面でアメリカが発言力を高めるのは第一次世界大戦後の1920年代のことになる。
メキシコ出兵
ナポレオン3世は、アメリカが南北戦争でメキシコへ介入できないのを好機ととらえた。このタイミングでメキシコ出兵を行った。ナポレオン3世は、ハプスブルク家をメキシコ皇帝に担ぎ、スペイン、イギリスを誘ってヨーロッパ連合軍として参戦した。当然、パーマストン首相はこれに応じてフランスのメキシコ出兵を支持した。
しかし、メキシコ出兵は失敗した。これにより、ナポレオン3世は支持率を大きく低下させた。
綿花価格の高騰でインドの重要性が高まる。
南北戦争は、ヨーロッパ経済にも大きな影響を与えた。アメリカ産綿花の供給がストップしたのである。当時、工業品の主要産品は綿織物であった。そのため、綿花の価格は高騰した。イギリス商人はこぞって、インドへ向かいインド産綿花を買いあさった。これによりインドは好景気となった。一方で、ロシアは、綿花を求めて綿花の産地中央アジアへ侵攻した。
64年 ロンドン 第一インターナショナル(国際的労働者団体)
48年革命で労働運動は一時沈静化していた。しかし、50年代後半に恐慌により、労働は再度活発化した。64年ポーランドの独立支援を求めるも徳的で第一インターナショナルが発足した。
これにより、労働者の発言力は強まり、第2回選挙法改正につながった。
66年 保守党ダービー首相、都市労働者に参政権
65年、パーマストン首相がなくなり、ラッセル首相が政権を引き継いだ。ラッセル首相の政治課題は、第二回選挙法改正となった。第2回選挙法改正の目的は労働者への選挙権の拡大であった。
ラッセル首相は、選挙権改正に尽力した。しかし、その内容は不十分なものであった。そのため、ラッセル首相は選挙法改正を実現できなかった。それを理由にラッセル首相は退陣に。
67年 第二回選挙法改正
保守党ダービー首相は、ラッセル首相案よりもさらに選挙権を拡大した内容で選挙法を改正した。これにより都市労働者が多く参政権を得た。都市労働者の敵、産業資本家を支持基盤にする自由党を苦しめる予定であった。
ディズレーリー保守党とグラッドストン自由党
このころ、保守党でも自由党でも世代交代が行われた。保守党のディズレーリーと自由党のグラッドストンである。この実機になると2大政党制が確立された。
世代交代を受けて、ディズレーリー保守党政権が成立した。しかし、少数与党のため、すぐに総選挙を行った。
68年 グラッドストン自由党首相とアイルランド問題
グラッドストン自由党党首は、68年総選挙で支持を獲得するためある公約を出した。アイルランド国教会廃止法案である。グラッドストンはこの法案でアイルランドの支持を獲得しようした。グラッドストンはこの選挙に勝利してグラッドストン自由党政権が成立した。
なぜ、グラッドストンはアイルランド問題を持ち出したのだろうか。68年総選挙は自由党にとって苦戦が予測された。それは、第二回選挙法改正で選挙権を得た都市労働者の存在である。そのため、都市労働者の支持を集める必要があった。そこで目を付けたのがアイルランド問題であった。
当時、アイルランドはイングランド地主に高い地代を支払っていた。もし、アイルランド農民がイングランド地主を追いやったら、アイルランドの安い農産物がイングランドに入ってくる。それを利用してこの総選挙に打って出た。
アイルランド問題で見る自由党と保守党
保守党にとって、アイルランド問題は弱点であった。保守党の支持層は地主階級である。その多くはアイルランド地主でもあった。当然、アイルランド問題は彼らの権利をはく奪することになる。グラッドストンはここをついたのである。
一方、自由党の支持基盤は都市の資本家(経営者)である。そのため、アイルランド人の問題の解決は、農産物価格の下落につながり、大いに歓迎すべき事項であった。
69年。グラッドストン首相は公約通りアイルランド国教会を廃止しした。これにより、アイルランド人は教会税を支払う必要がなくなった。
69年 普仏戦争回避のために尽力→ 「栄光なる孤立」へ
自由党は平和外交を推し進めようとしていた。
フランスとプロイセンは開戦直前になっていた。そこでグラッドストン首相はフランスとプロイセンに軍縮を提案。しかし、ドイツのビスマルクはこれを拒否した。
これが原因で、ドイツとイギリスの関係は悪化した。そのため、普仏戦争後の70年代に成立した三帝同盟にグラッドストン(イギリス)は参加しなかった。「栄光なる孤立」ここに始まった。
69年 スエズ運河完成→ エジプトの植民地化
フランスのナポレオン三世は、エジプトのスエズ運河を完成させた。これにより、フランスとインドの距離は急速に近くなった。これにより、80年代以降イギリスはエジプトへの関与を深めていく。
70年 アイルランド土地改革法案→ 自由党崩壊の始まり
当時、アイルランド人の大部分は小作農であった。その地主の大部分はイングランド人であった。アイルランドの小作農は、イングランドの地主に苦しめられていた。この法案で、アイルランド人の小作農の地位は向上した。しかし、欠陥があり実効性はそれほど大きくなかった。
80年代、グラッドストンはこの法案の改正を行おうとした。しかし、これにより自由党は分裂。グラッドストンは退陣し、ディズレーリー保守党政権が復活した。帝国主義の始まりである。