18世紀のヨーロッパは戦争が何度行われた。その中心にいたのがオーストリアである。
オーストリア継承戦争
概要
オーストリア継承戦争は、40年から48年にかけてヨーロッパで起きた戦争である。
原因 カール6世の死
きっかけは、神聖ローマ皇帝カール6世の死である。神聖ローマ皇帝は代々オーストリア=ハプスブルグ家が継いできた。17世紀前半で、神聖ローマ皇帝の地位は名目上のものに過ぎなかった。神聖ローマ皇帝の収入源は、オーストリアなどの領土からの税収であった。
カール6世には男の子がいなかった。そのため、神聖ローマ皇帝の地位を娘婿フランツ1世に、オーストリア領土を娘のマリアテレジアに相続させるために奔走した。とくに重視したのが、成長目覚ましいプロイセン王国(フリードリヒ2世)である。カール6世は、マリアテレジアの相続を認める代わりにシュレジエンの割譲を約束した。
シュレジエンは、オーストリア最大の工業地帯で地下資源も豊富であった。歴史的には、13世紀にワールシュタットの戦いが起こったのもこの地で、14世紀には、ボヘミア王国(現在のチェコ)領に、16世紀にオーストリア=ハプスブルグ家領になった。
40年、カール6世が亡くなると、遺言に従って、フランツ1世(カール6世の娘婿)が神聖ローマ皇帝になり、マリアテレジア(カール6世の娘)がオーストリア=ハプスブルク家領を相続し、プロイセン王国シュレジエンを領有した。
これに反発したのは相続権を持つ神聖ローマ帝国の有力諸侯であった。その中心は、ドイツ南西部のバイエルン選帝侯とドイツ南東部のザクセン選帝侯である。彼らは、バイエルン選帝侯を神聖ローマ皇帝カール7世としてマリアテレジアらに宣戦布告した。同じ頃、フランツ1世はプロイセンに割譲したシュレジエンへ侵攻した。ここにオーストリア継承戦争が始まった。
構図
オーストリア陣営
オーストリア(オーストリア=ハプスブルク家)
マリアテレジアとフランス1世夫妻。オーストリア領と神聖ローマ皇帝の地位を求めてバイエルン・ザクセン連合軍と対立。一方で、シュレジエンの地位をめぐり対立。ちなみにフランスとは16世紀からのヨーロッパの雄を争い続けた。
イギリス
フランスとアメリカ・インドをめぐり第二次百年戦争を展開。オーストリアには豊富な資金と申し訳程度の軍隊で支援。大部分の戦力はインドとアメリカへ送った。
プロイセン陣営
プロイセン王国
フリードリヒ2世。神聖ローマ帝国の諸侯国の一つ。新興国でありながら軍事力は高い。オーストリアとシュレジエンをめぐり対立。
神聖ローマ帝国の有力諸侯
ザクセン・バイエルンなど。オーストリアの相続権を主張し、オーストリアと対立。バイエルン選帝侯を神聖ローマ皇帝カール7世に擁立して参戦した。
フランス(ブルボン朝)
ルイ15世の時代。フランスとオーストリアは16世紀のカール5世の時代から対立を続けていた。そのため、プロイセン陣営で参戦していた。一方で、イギリスとインド・アメリカをめぐり百年戦争の真っただ中にあった。
結末 アーヘンの和約
オーストリア継承戦争は48年のアーヘンの和約で講和する。アーヘンの和約では、カール6世の遺言がほとんど認められた。
- 神聖ローマ皇帝はフランス1世とする。
- マリアテレジアは、オーストリア領を相続する。
- シュレジエンはプロイセン王国領とする。
フランツ1世とマリアテレジアはこの和約に納得しなかった。そのため、50年代の七年戦争に持ち越される。
対オスマン帝国戦争
35年に、ポーランド継承戦争が終結すると、神聖ローマ皇帝カール6世は、東へ向った。ロシアとともにオスマン帝国に侵攻。
しかし、カール6世はこの戦争に敗北。18年(パッサロヴィッツ条約)で獲得したバルカン半島のセルビア北部とルーマニア南部をオスマン帝国の返還した。
ポーランド継承戦争
概要
ポーランドの王位継承に関するフランス(ルイ15世)とオーストリア間の戦争である。した。33年に始まり、35年に講和した。
原因
ポーランドは東欧の大国である。この国では16世紀から選挙で国王を選ぶようになっていた。これを選挙王制という。33年にポーランド国王が亡くなると選挙が実施。国王に選ばれたのはルイ15世の義父が選出された。これに対し、オーストリアとロシアが圧力をかけ、選挙のやり直しをさせた。この結果、ポーランドの新国王は、前国王の息子となった。フランス国王ルイ16世は激怒。フランスは、オーストリアに宣戦布告した。
結末 ロレーヌの割譲
ポーランド継承戦争の結果、ポーランド国王は、オーストリアが推挙する前国王の子が継いだ。しかし、フランスはこの戦争でオーストリアからロレーヌを獲得した。初代国王にはポーランド国王になるはずだった。ルイ16世の父が就任した。
このロレーヌは地下資源が豊富な工業地帯であった。そのため、この地はアルザスとともにフランスとドイツの永年の係争地となった。
スペイン継承戦争
概要
スペイン継承戦争は、スペイン王位をめぐり、フランス(ルイ14世)とオーストリア(レオポルト1世)が争った戦争。01年に始まり、13年のユトレヒト条約で終結した。
スペイン王室がもつ新大陸の巨大利権(アシエント権)が絡んでいたため、多くの商人がこの戦争の結末に注目した。この戦争は18世紀最初の戦争になるとともに、太陽王ルイ14世がかかわった最後の戦争となった。
原因
スペインは、16世紀以降、スペイン=ハプスブルク家が統治していた。しかし、00年のカルロス2世の死でスペイン=ハプスブルク家が断絶した。この時、名乗りを上げだのが、フランス国王ルイ14位の孫と神聖ローマ皇帝(オーストリア=ハプスブルク家)レオポルト1世の次男である。ルイ14世は、スペイン=ハプスブルク家の祖であるフィリペ2世から名をとり、孫にフィリペ5世と名乗らせた。一方、レオポルト1世は、フィリペ2世の父カルロス5世(カール5世)から名をとり、次男にカルロス6世(カール6世)と名乗らせた。
スペイン国王は、前国王カルロス2世の遺言により、ルイ14世の孫、フィリペ2世に与えられた。フィリペ2世はフランス商人にアシエント権を与えた。
アシエント権は、新大陸(アメリカ)への黒人奴隷販売権である。アシエント権を持つ商人は、スペイン王室に関税を治める代わりに新大陸での黒人奴隷の独占的販売権が与えられた。
構図
オーストリア陣営
オーストリア
プロイセン王国
プロイセンは、神聖ローマ帝国の諸侯国の一つであり、神聖ローマ帝国の北東部の軍事大国である。プロイセンは、王国への昇格の見返りに、オーストリアを支援した。
イギリス・オランダ
イギリスとオランダは大航海によって富を蓄えつつあった。更なる利益拡大を狙って、スペインのアシエント権がどうしても欲しかった。
フランス陣営
フランス
フランスは、太陽王ルイ14世の絶頂期にあった。フランスの国土を拡大するとともに、アメリカやインドへも進出していた。そのため、ヨーロッパの多くの国は、フランスを敵視していた。
また、ナントの勅令廃止によって、多くの勝因がイギリスなどのプロテスタント国家へ移住した。
結末 ユトレヒト条約
13年、スペイン継承戦争は終結。ユトレヒト条約が締結された。ユトレヒト条約は、フランス
- スペイン国王はフィリペ6世(ルイ14世の孫)が就任する。
- ただし、フィリペ6世はフランスの王位継承権を放棄する。
- イギリスとオランダは、スペイン・フランス両国から領土を獲得する。
オーストリアは、フランスとユトレヒト条約とは別にラシュタット条約を締結した。これより、スペインからいかの領土を獲得した。