前回の復習 16世紀前半のドイツ
16世紀前半のドイツは神聖ローマ帝国と呼ばれていた。当時のドイツは、ハプスブルク家の全盛期であった。その中心実物は、カール5世であった。
さて、今回はハプスブルク家がどのようにして繁栄を広げたかを見ていきます。
中世最後の騎士 マクシミリアン1世
マクシミリアン1世とは
マクシミリアン1世とは、カール5世の前の神聖ローマ皇帝である。15世紀末から16世紀初頭にかけて皇帝の地位についた。カール5世の父方の祖父に当たる。
時代区分としては中世から近代に代わる転換点の皇帝である。そのため、中世最後の騎士といわれることが多い。ルネサンス期の君主として文芸の保護にあたった。
家系図と婚姻政策
父は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世であった。
母は、ポルトガル王女エレオノーレである。当時のポルトガルは、大航海時代に入っていた。そのため、西アフリカから大量の金が手に入った。ポルトガルの金によって神聖ローマ帝国は資金が潤沢であった。
妻は、ブルゴーニュ公国の王女マリアであった。ブルゴーニュ公国は、フランス東部の国で、ブルグント王国を起源に持つ。クリュニー修道院などの多くの修道院があり、敬虔なキリスト教徒が多い。神聖ローマ皇帝になる前、マクシミリアン1世はブルゴーニュ公国領ネーデルランドにいた。
14世紀から始まった百年戦争ではブルゴーニュ派のトップとして、イギリスとともにフランス王家(オレルアン派)と戦った。ジャンヌダルクをイギリスへ売り渡したのもブルゴーニュ公である。53年、百年戦争でフランスがイギリスに勝利。74年、フランスはブルゴーニュへ侵攻。77年、ブルゴーニュ公国は敗北。義父であるシャルル突進王は亡くなった。そのあとを継いだのがマクシミリアン1世であった。
ブルゴーニュ公国は、もともとフランス南東部の内陸国であったが、毛織物で盛んなネーデルランド(オランダなど、当時はフランドル地方と呼ばれていた)を支配していた。
マクシミリアン1世のフランドル地方の統治は簡単には始まらなかった。82年、妻マリアが亡くなると、マクシミリアン1世に対する反乱がおきた。その裏にいたのはフランス王ルイ11世である。マクシミリアン1世はこの反乱を鎮圧して名実ともにブルゴーニュ公国の領主となった。
ハンガリーとオスマン帝国
オーストリアには、父であり、神聖ローマ皇帝のフリードリヒ3世が統治していた。
マクシミリアン1世がブルゴーニュ公国の反乱で争っているころ、オーストリアも存亡の危機にあった。ハンガリー王国の侵攻である。85年にはハンガリーはウィーンを占領した。フリードリヒ3世はアーヘンに拠点を移した。
86年、ブルゴーニュ公国に行った息子のマクシミリアン1世をアーヘンに呼び寄せた。マクシミリアン1世はローマ王に即位。ウィーンをハンガリー王国から奪還した。
ハンガリーの南は、バルカン半島である。当時のバルカン半島はオスマン帝国の支配下にあった。オスマン帝国は53年にコンスタンチノーブルを陥落。千年帝国であるビザンツ帝国を滅亡させた
イタリア戦争(vsフランス)
ここで話を、15世紀半ばのフランスへ移す。53年、フランスは、百年戦争でイギリスに勝利。77年、イギリスに味方したブルゴーニュ公シャルル突進王に勝利。しかし、ブルゴーニュの反乱で、ブルゴーニュ公国はハプスブルク家の領土となった。これがイタリア戦争前のフランスの状況である
再び、話をハプスブルク家のマクシミリアン1世に戻す。90年、父フリードリヒ3世が急死。93年、七選帝侯によって神聖ローマ皇帝に選出された。同じ年、マクシミリアン1世は北イタリア中部のミラノ公国の有力者の娘ビアンカと再婚。イタリアへの足掛かりをつける。
翌94年、フランスのシャルル8世が南イタリアの王位継承権を主張して、ナポリへ侵攻した。マクシミリアン1世は反フランス同盟を結成した。ここに参加したのが、スペイン(92年にレコンキスタを完成)とローマ教皇、そしてヴェネツィアなどの都市共和国であった。ここにヨーロッパ版応仁の乱ことイタリア戦争が始まった。
しかし、マクシミリアン1世自身は、ドイツ諸侯を説得することができず、参戦できなかった。そのためイタリア諸国と溝が生まれ、ローマで戴冠式を行うことができなかった。
マクシミリアン1世の内政
イタリア戦争は軍事面で大きな変化をもたらした。それが鉄砲の使用である。それまで、主力部隊は騎馬隊であった。そのため、乗馬の訓練を受けた騎士しか戦闘に参加することができなかった。しかし、鉄砲であればそれほどの訓練を必要としなかった。
そのため、軍隊の編成も大きく変わった。それまでは軍事訓練を受けた騎士が中心であったのが、鉄砲を使う傭兵部隊が中心になった。16世紀以降の戦争では、傭兵に払う給料や鉄砲などの武器の調達費などで使う資金力が問われるようになった。
マクシミリアン1世は、バイエルン公からチロル地方を守った。チロル地方には多くの銀山があった。。マクシミリアン1世は、チロル地方で鉱山経営を行うフッガー家と親交を深めた。これにより資金力を獲得し、繁栄を極めた。
また、軍隊の中心が騎士から傭兵に代わることで多くの領主は没落していった。そのため、ここから絶対王政の時代へ入っていく。
一方で、マクシミリアン1世はイタリア戦争に明け暮れたため、ドイツ国内の治安は悪化した。そのため、95年にヴォルムス帝国議会で国内の治安の維持を約束させられた。そのため、マクシミリアン1世は、イタリア戦争に参加することができなかった。さらに、99年、マクシミリアン1世はスイスの事実上の独立を認めた。
マクシミリアン1世の婚姻政策
スペイン
イタリア戦争の翌年の96年、自分の息子フィリップをスペインの王女ファナと結婚させた。2人の間に生まれたのがカール5せいとフィルディナント1世である。
当時のスペインは、92年にレコンキスタを完成したばかりの若い国であった。スペインも反フランス同盟でイタリア戦争に参戦。このときにマクシミリアン1世との親交ができた。
ハンガリーとチェコ
16世紀に入るとポーランドのヤゲヴォ朝との親交が始まる。15年には、自分の孫娘をヤゲヴォ朝ルドウィクに送る代わりに、孫のフィルディナント1世の后としたマリアを迎え入れた。
15世紀のポーランドは、現在とは違い東欧の大帝国であった。15世紀後半にはハンガリー王やチェコ王(ベーメン王)を兼任していた。
ハプスブルク家の再興
平和主義者 フリードリヒ3世
フリードリヒ3世は、マクシミリアン1世の父である。40年に父アルプレヒト3世が亡くなると、神聖ローマ皇帝の地位についた。
ただ当時にハプスブルク家はオーストリア南部の3州のみを持つ弱小諸侯であった。
ハプスブルグ家を再興させたアルプレヒト2世
38年、ルクセンブルグ家が断絶。ハプスブルグ家出身で前皇帝の娘婿であったアルプレヒト2世が即位した。これにより、130年ぶりにハプスブルグ家出身の神聖ローマ皇帝が端除した。しかし、即位して2年後に赤痢で亡くなった。
ルクセンブルグ家
ジギスムント
ハプスブルグ家が神聖ローマ皇帝につく前に神聖ローマ皇帝の地位についていたのは、ルクセンブルグ家であった。ルクセンブルクは現在も存在するベネルクス3国の1つになっている中欧の小国である。
当時の皇帝は、金印勅書を出したカール4世の子である。ジギスムントの時代である。
フス戦争
ジギスムントは、ローマ=カトリックを強く進行していた。そのため、コンスタンツ公会議でローマ=カトリックを否定した神学者フスを処刑した。
フスは、プラハ大学の神学者である。この大学は、カール4世がチェコのプラハに作った大学である。
フスの処刑によって、プラハで第反乱がおきた。これがフス戦争である。これにより、ルクセンブルグ家が断絶。皇帝は再びハプスブルク家へ戻った。
コンスタンツ公会議
14世紀初頭の神聖ローマ皇帝の課題は、大シスマの解消であった。大シスマとは、アヴィニョン(フランス)とローマの2人の教皇がいる時代のことである。
ジギスムントは、コンスタンツ公会議を開催。教皇庁をローマに一本化することに成功した。
ハンザ同盟の衰退
神聖ローマ帝国の北部では、北海とバルト海を商業圏とした商人組合ハンザ同盟が存在した。ハンザ同盟の都市は、神聖ローマ皇帝から特許状をもらい封建領主から独立した存在であった。
ハンザ同盟は、14世紀に全盛期を迎えたが、15世紀に入ると衰退が始まった。
ドイツ騎士団はポーランドに敗北
では、プロイセンの前身であるドイツ騎士団はどのような状況であったのであろうか。そのためには、ドイツの東、ポーランドについて語らなければならない。
ポーランドは、ロシアとドイツの間にある東欧の国である。主な民族は、西スラブ人である。このポーランドは15世紀に全盛期を迎える。14世紀後半、ポーランドはリトアニアと合同し、リトアニア=ポーランド王国になった。
リトアニアとポーランドの合同の目的は、ドイツ騎士団との戦いであった。その結果、ドイツ騎士団は15世紀に衰退の道を歩み始める。10年、ドイツ騎士団はリトアニア=ポーランド王国軍にタンネンベルグの戦いで大敗。54年から66年の十三年戦争で、ドイツ騎士団はバルト海沿岸の町グダンスクを奪われた。
一方、ポーランドは、69年にリトアニアと完全に合併。以後、ポーランド王国と呼ばれる。