16世紀前半のドイツ 神聖ローマ皇帝カール5世とイタリア戦争

フィルディナント1世

16世紀前半の神聖ローマ帝国

 16世紀、ドイツなどの中欧は、神聖ローマ帝国が支配していた。そのトップである神聖ローマ皇帝はカール5世であった。カール5世は、スペイン王も兼任しており、ドイツの統治は弟のフェルディナント1世に任せていた。

アウクスブルクの和議とルター

宗教改革とは

 16世紀前半のドイツは、宗教改革の真っただ中にあった。宗教改革とは、ローマ=カトリックとプロテスタントの戦いである。ローマ=カトリックは、15世紀以前の世界で西欧でほぼ中心的な宗教であった。そのトップは、ローマにいるローマ教皇であった。一方、プロテスタントは、ローマ=カトリックに対抗するキリスト教の派閥の総称である。

 プロテスタントは、主に2つの派閥がある。カルヴァン派とルター派である。カルヴァン派は、スイスで始まり、フランスやイングランド、オランダなど西側に広まった。一方、ルター派は北ドイツで始まり、北欧やドイツなど東側に広まった。 

アウクスブルクの和議

 55年、アウクスブルクで帝国議会が行われた。神聖ローマ皇帝とルター派諸侯の間で和解が成立した。その内容は、諸侯に対してルター派の信仰を認めるものであった。これをアウクスブルクの和議という。

 しかし、2つの面で宗教の自由を完全に認めたものではないことになっている。この2つの条項は、約100年後のウェストファリア条約まで自由化されなかった。

 また、この和議で、カール5世の引退が決まった。フェルディナント1世が神聖ローマ湖奥底になったのはこの時であった。

 一つ目は、カルヴァン派はこの時点で認められていない。

 二つ目は、領民には信仰の自由は認められていない。特に神聖ローマ皇帝の直轄領であるベーメンやハンガリーではルター派の信仰は認めれなかった。

 帝国議会とは、諸侯によって構成される議会。神聖ローマ皇帝の諮問機関である。近代の議会のように皇帝の権限を縛るものではなく、議員も国民の選挙で選ばれるものではなかった。

ドイツ農民戦争

 16世紀前半の神聖ローマ帝国の宗教政策は二転三転した。その理由は、フランスとのイタリア戦争の真っただ中であったからである。

 19年、カール5世が神聖ローマ皇帝が即位。

 21年、ヴォルムス帝国議会でルター派を異端として、ルターを国外追放処分にする。

 24年、神聖ローマ帝国各地で農民反乱が発生。(ドイツ農民戦争)。これにより、神聖ローマ帝国は劣勢になる。

 26年、シュパイアー帝国議会で、皇帝はルター派を容認。

 29年、シュパーアー帝国議会を再び開催。この頃には、神聖ローマ帝国も優勢になりつつあった。そのため、皇帝はルター派の容認を撤回。再び、ルター派は異端とされた。これに、ルター派諸侯は反発。シュマルカルデン戦争になった。

 55年、皇帝とルター派諸侯が和解。シュマルカルデン戦争が終結し、アウクスブルクの和議を締結した。

ヴォルムス帝国議会

 カール5世は、19年に皇帝に即位した。カール5世は、その2年後の21年にヴォルムス帝国議会を開催した。その目的は、ルターの喚問であった。背景には、イタリア戦争を優位に進めるためにローマ教皇の支持を獲得したい思惑があった。

 帝国議会は紛糾した。神聖ローマ皇帝は、ルターをフスと同様に火あぶりの刑に処すべきと考えたであろう。しかし、諸侯の中には、ローマ=カトリックを快く思わないものもいた。彼らは、ルターを容認しようとした。そのため、神聖ローマ皇帝は分裂寸前の状態であった。

 しかし、イタリア戦争の真っただ中で皇帝も諸侯も分裂は避けたいと考えていた。そして、折衷案で解決した。

 ルターを異端とし、国外追放処分とした。また、ルター派の書物の販売を禁止した。

 ルターは、ヴォルムス帝国議会の後、姿を隠した。ルターは、ドイツ南東部の有力諸侯であるザクセン公によってかくまわれた。そこで、ルターは聖書のドイツ語翻訳を作成した。ルター訳の聖書は、グーテンベルクの活版印刷によって大量に作成された。

ルター派

 では、ルター派とは、どのような宗派だったのであろうか。

 ルターは、15世紀後半に神聖ローマ帝国のザクセンに生まれた。修道院でキリスト教を学び、その後ローマにわたりルネサンスを戴冠した。12年に故郷のザクセンに戻り、神学教授として大学で教鞭をふるった。

 ルターが宗教改革者になったきっかけは、レオ10世の贖宥状の販売にあった。多くのドイツの人々はルターに尋ねた。贖宥状を買うべきかと。そして、ルターはこれを否定した。そして、17年ザクセンの教会に質問状を貼った。これが『ルターの九十五か条の論題』である。ここから、ローマ=カトリックとルターとの戦いが始まる。

 ルター派は、よく福音主義と呼ばれる。その理由は聖書を重要視ししたからである。ルター派によれば、聖書に書かれていない贖宥状やローマ教皇を否定した。

贖宥状

 では、なぜルター派は多くの人に受け入れられたのであろうか。それは、ローマ教皇が販売した贖宥状にあった。

 贖宥状は、免罪符とも呼ばれている。贖宥状を購入することで、この世での罪は許され、最後の審判で天国へ行くことができるとされていた。

 これを販売したのが、ローマ教皇レオ10世であった。レオ10世は、フィレンチェの富豪メディチ家の出身である。レオ10世はかなりの浪費家で、多くの芸術家を支援した。これが16世紀のイタリアのルネサンスを支えた。

 レオ10世は、13年にローマ教皇になると、前教皇時代から続いていたローマのサン=ピエトロ教会に着手した。レオ10世は、教会をより豪華なものにするため、資金を必要とした。そこで新たな財源を思いついた。それが、17年に販売した贖宥状であった。

 17年、ルターが『九十五か条の論題』を発表すると、レオ10世は直ちにルターを破門した。

第1次ウィーン包囲

オスマン帝国を撃退

 16世紀、日本では織田信長や豊臣秀吉などのスーパースターが多く誕生した。この動きは世界的なものでもあった。ヨーロッパではヨーロッパで大半な領土を支配したカール5世である。中東も例外ではない。それがオスマン帝国のスレイマン1世である。

 オスマン帝国は、15世紀に千年帝国と呼ばれたビザンツ帝国を滅ぼした。

 スレイマン1世は、29年にウィーンを包囲。この防衛にあたったのが留守を守っていたフェルディナント1世であった。神聖ローマ帝国とオスマン帝国の戦いは47年まで続き、休戦した。

 この休戦によって、ハンガリーは分割され、南半分がオスマン帝国に割譲された。

第一次ウィーン包囲

 スレイマン1世は、ハンガリーを制圧。29年9月、ウィーンを包囲した。当時、ウィーンにいたのはカール5世の弟、フェルディナント1世であった。カール5世は、ウィーン包囲の状況を聞き、敗戦不可避と考え援軍を送ることができなかった。

 しかし、フェルディナント1世は必死に籠城を続けた。そして、冬になると、オスマン帝国軍の補給が続かなくなり、スレイマン1世は、ウィーンをあきらめた。

 この戦闘により、フェルディナント1世の名声は高まり、ハプスブルク家分裂のきっかけとなった。

チェコとハンガリー

 オスマン帝国のスレイマン1世は、3つの目的で神聖ローマ帝国へ侵攻した。1つ目は、皇帝の直轄であったハンガリーを奪うこと。2つ目は、同君連合であるスペインとの戦いである。そして3つ目は、オスマン帝国の同盟国であるフランスの支援であった。

 神聖ローマ帝国とは、小さな国の集まりである。それぞれの小さな国のトップを諸侯という。神聖ローマ皇帝は有力な諸侯から選ばれる。すなわち、神聖ローマ皇帝は、皇帝という立場と諸侯という立場が存在する。皇帝として、軍事や外交を取り仕切り、生活は皇帝の直轄領から入る税収で賄った。

 ここからは、ハプスブルク家が持つ3つの国を見ていく。

 1つ目は、オーストリアである。オーストリアの語源は、東の国である。昔は東方のアジア系騎馬民族に対抗する最前線であった。13世紀からハプスブルクの領土になった。その中心都市、ウィーンでは現在でもハプスブルク家の栄光を見ることができる。

 2つ目は、チェコである。ポーランドと同じ西スラブ人が建国した国である。当時はベーメンと呼ばれていた。都のプラハには神聖ローマ帝国で最初の大学であるプラハ大学がある。ここで教鞭をとっていたのがフス氏である。キリスト教の一派であるフス派が誕生。宗教を理由にしばしば反乱が発生した。

 最後は、ハンガリーである。アジア系騎馬民族マジャール人の国である。ハンガリーの語源は、ガリアにいるフン族(マジャール人以前にヨーロッパへ侵攻したアジア系騎馬民族)という意味である。オーストリアから見て、南東部に位置し、オスマン帝国が支配していたバルカン半島の入り口に位置している。

スペイン

 スペインは、15世紀末にレコンキスタが完了し、イスラム教徒との戦いが終結したばかりであった。コロンブスの支援で新大陸の開拓を進めていた。

フランソワ1世(フランス)

 16世紀前半、フランスのヴァロワ家とハプスブルク家は北イタリアをめぐり戦争をしていた。これをイタリア戦争という。当時のフランスの国王派フランソワ1世である。カール5世がヨーロッパの大部分を支配すると、これに対抗するためオスマン帝国のスレイマン1世と同盟を結んだ。

生い立ち

 最後に、フェルディナントの少年時代を見ていこう。フェルディナント1世は、03年にカール5世の弟して生まれた。スペインで生まれスペインで育った。そのため、スペインの人々は、後のスペイン王としてその成長を見守った。しかし、15年にハンガリーの王女と結婚。16年、生まれ育ったスペインを離れオーストリアへ引っ越した。以後、スペインの地を踏むことはなかった。

 26年、義弟がオスマン帝国との戦いで戦死。義弟が統治していたチェコ(ベーメン)とハンガリーを相続した。

カール5世

カール5世とは

 カール5世は、フェルディナント1世の兄で、神聖ローマ皇帝兼スペイン国王であった。後半では、カール5世の視点で16世紀前半のヨーロッパを見ていきます。

マゼランと大航海時代

スペインと新大陸

 当時、スペインは新大陸アメリカを獲得した。92年、スペインが支援したコロンブスが大西洋横断に成功。94年のトリデシリャス条約で西回り航路の優先権を獲得した。

価格革命

 スペインは、新大陸の2つの王国を滅ぼし、新大陸を手中に収めた。45年、南米で銀山が発見される。これにより、スペインは大量の銀を獲得した。この銀は世界中を駆け巡った。ヨーロッパでは銀の価格が暴落し、農産物価格が暴騰した。

ピサロとコルテス

 スペインは、アメリカがインドではないとわかると征服活動を開始した。その代表がピサロとコルテスである。

コルテスピサロ
アステカ王国
(中米のメキシコ)
征服地インカ帝国
(南米のペルー)
21年征服年33年

フィリピンとマゼランの世界一周

 当時の大航海の目的は、海賊王になることではない。東南アジアの香辛料の獲得にある。スペインはアメリカの征服活動を進めながら、アジアへの航路を探していた。それを務めたのがポルトガル人のマゼランであった。

 マゼランは19年8月にスペインのセビリアを出港。南米の最南端を目指した。翌20年10月、南米最南端を発見。この海域はマゼラン海峡といわれる。荒れたマザラン海峡を抜けるとそこには穏やかな海が広がった。この海域を後の人々は太平洋と呼んだ。21年3月、東南アジアのとある島にたどり着いた。マゼランは、当時の皇太子フェリペ2世の名をとって、フィリピンと名付けた。

 マゼランは、フィリピンで原住民に殺害。マゼラン一行の大部分がこの時に殺愛された。生き残った少数の兵士がモルッカで香辛料を調達。インド洋を横断し、22年9月スペインのセルビアに帰還した。

 余談だが、帰路の途中にポルトガルの拠点に立ち寄った。現地の日付と航海日誌の日付が1日ずれていた。これは太平洋上にある日付変更線を越えたからである。ただ、当時の人はその概念を知らなかった。これが日付変更線の発見である。 

アメリカ大陸の発見

 92年のコロンブスの大西洋横断以降、スペイン王室は香辛料の調達を心待ちにしていた。そのような中、00年にスペイン王室に悲報が伝わった。アメリカ大陸の探検を行っていたアメリゴ=ディスブッチから、コロンブスが発見したのはインドではなく新大陸であったとの報告である。新大陸は、新大陸発見したアメリゴ=ディスブッチの名をとり、アメリカと呼ばれるようになった。

ライバルのフランソワ1世

イタリア戦争

 16世紀前半、カール5世はイタリアをめぐり、フランスのヴァロワ家フランソワ1世と戦闘状態にあった。この戦争は、敵と味方がコロコロ入れ替わった。ヨーロッパ版応仁の乱である。

 当時のイタリアには分裂状態であった。北部は、ジェノヴァ、フィレンチェ、ミラノ、ヴェネツィアなどの都市共和国があった。中央部は、ローマ教皇領があり、南部はナポリ王国があった。

3人のローマ教皇

 イタリア戦争では、ローマ教皇が大きな影響力を持った。

 13年、レオ10世が即位。彼は、フィレンチェの名家メディチ家の出身である。彼の目的は、オスマン帝国からの聖地奪還とサン=ピエトロ大聖堂の大改修であった。その資金を確保するために行われたのが、贖宥状の販売であった。贖宥状の問題をきっかけに17年宗教改革が始まることになる。レオ10世は、ヴァロワ家とハプスブルク家を巧みに利用して、高い影響力を持った。

 21年、フランソワ1世がカール5世に宣戦布告。23年ローマ教皇にクレメンス7世が即位。フランスを支援する。25年、フランソワ1世が捕虜になる。解放の見返りとしてイタリアの権益を放棄する。27年、カール5世はローマ侵攻。「ローマの劫略」である。これにより、ローマは灰になった。これにより、イタリアのルネサンスは終わった。30年、カール5世とローマ教皇クレメンス7世が和解。戴冠式が行われた。

 34年、カール5世の推薦でパウルス3世がローマ教皇に。最初に発生したのがイングランド王室の離婚問題である。当時のイングランド王ヘンリ8世の妻は、カール5世の叔母キャサリンである。当然、ローマ教皇パウルス3世はイングランド王8世を破門した。ヘンリ8世はローマ教皇に対抗して、首長法を制定しイギリス国教会を発足させた。

オスマン帝国

 フランソワ1世も対抗策を講じた。34年にカール5世がパウルス3世をローマ教皇に即位させた。その翌35年、フランソワ1世は奇想天外な手を打った。異教徒のオスマン帝国スレイマン1世と同盟を結んだのである。

 同盟を締結すると、フランソワ1世は北イタリアのミラノへ侵攻。イタリア戦争は再開された。

 38年、スレイマン1世も、開戦に向かった。プレヴェザの海戦である。スレイマン1世は、この海戦で、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍を破った。

 ヴェネツィアは、14世紀まで東方貿易で繁栄していた。しかし、17年に交易相手のマムルーク朝がオスマン帝国によって滅亡すると次第に影響力を落としていった。

 プレヴェザの海戦でオスマン帝国は地中海交易を独占した。そのパートナーに選んだのが同盟国のフランスであった。 

イングランド国王ヘンリ8世

 イタリア戦争でキャスティングボードを持った人がもう一人いた。それがイングランド国王ヘンリ8世であった。ヘンリ8世は09年にイングランド国王に即位した。当時のイングランドの課題は、大陸領土のカレーの地を守ることであった。

 カレーの地は、フランスとオランダの間にある。ヘンリ8世は、カール5世を選び、フランスと戦った。その理由は、ヘンリ8世の奥さんがカール5世の叔母であったことも大きい。

 20年、ローマ教皇レオ10世がルターを破門。ヘンリ8世は、21に年にルターを批判する文書を発表。ヘンリ8世とローマ教皇レオ10世との関係は良好なものとなった。

 しかし、ヘンリ8世は子宝に恵まれなかった。そのため、27年ヘンリ8世はローマ教皇に離婚を申し入れた。「ローマの劫略」の直後であった。カール5世に逆らえないローマ教皇クレメンス7世はこれを拒否した。これにより、イングランドはプロテスタントの方向へ向かっていく。

神聖ローマ皇帝選挙

 神聖ローマ皇帝は、ハプスブルク家が相続するようになったのは、16世紀後半のことである。16世紀前半以前は、七選帝侯の選挙によって選出された。カール5世の父方の祖父マクシミリアン1世が亡くなると、19年、神聖ローマ皇帝の選挙が行われた。ここで戦ったのが、ハプスブルク家のスペイン国王カール5世とヴァロワ家のフランス国王フランソワ1世であった。

 この選挙は、資金力がものを言った。カール5世は、資産家フッガー家の支援で選挙に勝利。神聖ローマ皇帝に即位した。戴冠式は、カール大帝の王宮のあったアーヘンで行われ、レオ10世が冠を授けた。

生い立ち

 カール5世はなぜ、このような広大な領土を獲得したのであろうか。それは、相続によるものである。神聖ローマ皇帝に即位する前のカール5世の生い立ちを見ていこう。

 父は、ブルゴーニュ公である。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の息子である。ブルゴーニュは、ブルグンド王国が下になった国で、フランスとドイツ(神聖ローマ帝国)の間にある国であった。しかし、このブルゴーニュ公はオランダなどのネーデルランドを領有していた。そのため、当時のブルゴーニュ公の拠点はオランダであった。オランダはエ織物業が盛んでブルゴーニュ公はオランダから多くの富を得ていた。

 母は、スペインの王女である。スペインは、弟のフェルディナント1世が生活した。しかし、15年に祖父の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世は、ボヘミア王兼ハンガリー王の王女とフェルディナント1世を結婚させた。この結婚によりフェルディナント1世はオーストリアへ向った。16年に母方の祖父フェルディナント1世が亡くなると弟の代わりにスペイン国王に即位した。カール5世は、スペインではカルロス5世と呼ばれた。

カール5世を支えたフッガー家

 カール5世を裏で支えていた富豪がいた。それは、フッガー家である。

 フッガー家は、南ドイツのアウクスブルクに拠点を置いていた。アウクスブルクは現在はドイツのバイエルン州にあるが、アウクスブルクは帝国都市としてバイエルンから独立していた。

 フッガー家は、15世紀、ヴェネツィアとの交易で大きく栄えた。15世紀のヴェネツィアはエジプト(マムルーク朝)との交易で栄えていた。

 フッガー家はヴェネツィアとの交易で得た資金で鉱山開発に乗り出した。オーストリア南部のチロル銀山やハンガリーの銅山を購入した。業態の変更の結果、マムルーク朝の滅亡でヴェネツィアが衰退しても、フッガー家は繁栄をつづけた。

 フッガー家はチロル銀山の銀を利用して金融業へ進出した。これにより、ヨーロッパの国際通貨は銀になった。これが商業革命のインフラとなった。

フッガー家の資金は、16世紀に大きな影響を及ぼした。

  • イタリア戦争の戦費
  • カール5世の神聖ローマ皇帝選挙の選挙資金
  • サンピエトロ大聖堂の修繕費用
  • イタリアルネサンス

 しかし、16世紀半ば新大陸でポトシ銀山が発見されるとヨーロッパの銀価格が大暴落。フッガー家は没落した。

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