1820年代のエジプト
1820年代、オスマン帝国はギリシャ独立戦争の最中にいた。ムハンマド=アリーもこの戦争でが活躍。担当エリアを拡大させた。さらに、アルジェリアは進出したフランスとの関係も深めていた、
さて、今回はムハンマド=アリーの政治を見ていきます。
ワッハーブ王国を滅ぼす
概要
ムハンマド=アリーは、オスマン帝国の指令でワッハーブ王国へ侵攻。第一次ワッハーブ王国を滅ぼし、メッカやメディナの統治をおこなうようになった。
ワッハーブ王国とは
ワッハーブ王国は、現在のサウジアラビアの前身になる国である。アラブ民族のサウード家が18世紀半ばにオスマン帝国から独立して建国した国である。ワッハーブ派と結んで建国したのでワッハーブ王国と呼ばれる。
ワッハーブ派とはイスラム教スンニ派の派閥の一つである。正統カリフ時代のアラビア人を中心としたイスラム教への回帰を唱えた。
その後のエジプト
ムハンマド=アリーは、ワッハーブ王国を滅ぼすとアラビア半島の南側(紅海沿岸)まで勢力範囲を広げた。このエリアには聖地メッカとメディナがある。
聖地 メッカ
メッカとは、預言者ムハンマドの生誕の地である。ムハンマドがイスラム教を開祖すると、迫害されメッカの街を奪還した。その後、メッカを奪還。多神教の神殿であったカーバ神殿をイスラム教の寺院に変えた。現在でもイスラムの礼拝はメッカの方角に向かって行われる。
オスマン帝国とエジプト
当時のエジプトとオスマン帝国の関係は、どのような関係であろうか。ムハンマド=アリーの役職は総督(ワーリー)である。これは、エジプトの絶対的トップである。総督は、オスマン皇帝が任命する。しかし、実際はムハンマド=アリーが実質的にエジプトを統治。オスマン皇帝はこれを追認する形で総督の地位を与えた。
農地改革 マムルークを一掃
マムルークを一掃
11年、ムハンマド=アリーは、アラビア遠征の前に壮行会を開いた。しかし、それは罠であった。ムハンマド=アリーは、壮行会と称して、マムルークを虐殺した。
これにより、旧地主層であったマムルークは一掃された。
マムルークとは
マムルークとは、トルコ系の軍事奴隷のことを言う。9世紀ごろからイスラム教国各地に散らばった。13世紀には、エジプトのマムルーク朝を開いた。
オスマン帝国は、16世紀初頭に、マムルーク朝を滅ぼし、エジプトを支配下に置いた。これにより、エジプトは、オスマン帝国が派遣した総督。地主層であるマムルーク、そして農民であるアラブ人の3つの階級が成立した。