1810年代のエジプト
1810年代のエジプトは、マムルークを一掃。メッカとメディナをもつワッハーブ王国を滅ぼした。これにより、アラブ人とムハンマド=アリーによるエジプトの建設が始まった。
さて今回は、ムハンマド=アリーがエジプトに入るきっかけとなったナポレオンのエジプト遠征を見ていきます。
エジプトの4つの勢力
概要
03年、アミアンの和約でイギリスが撤退するとエジプトは内戦状態になった。オスマン総督(正規軍)、アルバニア人傭兵部隊、親英的マムルーク、反英的マムルークの4つの勢力が権力争いが行われた。
アルバニア傭兵部隊のトップに立ったムハンマド=アリーは、エジプトのアラブ人の支持を集めた。オスマン皇帝もこの状況にあらがうことができなかった。そして、エジプトの宗教指導者の推薦により、オスマン皇帝はムハンマド=アリーをエジプト総督に任命した。
アルバニア不正規兵
アルバニアは、現在も存在する。バルカン半島南西部の国である。19世紀、アルバニアはオスマン帝国の支配下にあった。アルバニアの南には、アレキサンダー大王が誕生した北マケドニアがある。ムハンマド=アリーはこのマケドニアで生まれた。
ナポレオンがエジプトを遠征すると、アルバニア人傭兵部隊をエジプトへ派遣した。これに参加したのがムハンマド=アリーである。
エジプトの混乱で、司令官が暗殺。ムハンマド=アリーは司令官の地位を引き継ぐことになった。
エジプト総督
では、当時エジプトはどのような状況であったのであろうか。エジプトは、3層構造になっていた。頂点には、オスマン帝国が派遣する総督(ワーリー)がいた。
マムルーク
マムルークとは、トルコ系の軍人奴隷。オスマン帝国野支配下になる前からエジプト地主階級の地位についていた。この時代、総督(ワーリー)は有名無実化し、マムルークが実験を握っていた。
マムルークは、親英派と反英派に分裂し、熾烈な権力闘争を行っていた。総督や非正規軍もこの混乱に巻き込まれた。これが03年のカイロ暴動である。
アラブ人
エジプトの先住民はアラブ人である。この時代のアラブ人はマムルークの下で生活をしていた。
ムハンマド=アリーは、マムルークの支持を得ることでエジプト総督の地位に上り詰めることができた。
ナポレオン遠征
98年、フランスのナポレオンがエジプトへ侵攻した。イギリスとインドの交易ルートを遮断するためである。
翌99年、ナポレオンはパリへ帰還。ブリュメール18日のクーデターを引き起こする。これにより、フランス本国は安定した。一方、あおりを食ったのがエジプトに残ったフランス軍である。イギリス軍によって壊滅状態になった。
02年、イギリスの小ピット首相が失脚すると、アミアンの和約が成立。翌03年、エジプトの治安を守っていたイギリス軍が撤兵。これにより、エジプトは内乱状態になる。