ドイツ・イタリアの統一(19世紀後半)

(前史)48年革命

 ウィーン体制で成立した大国による四国同盟(後の五国同盟)が成立した。

 そのうち、中欧のプロイセンとオーストリアは48年革命で混乱した。

 フランスでは、48年革命で第二帝政(ナポレオン3世)が成立する。

 ロシアをイギリスは、あまり48年革命の影響を受けなかった。

クリミア戦争

強気のロシア

 ロシアは、ニコライ1世の時代。48年革命で発生した東欧の独立運動を次々鎮圧。特にオーストリアには多くの恩を売った。

 ニコライ1世は、この名声を使って地中海への進出(南下政策)を模索していた。そのため、バルカン半島に領土をもつオスマン帝国への侵攻を検討していた。

 そのころ、48年革命で大統領になったナポレオン3世がオスマン帝国に聖地管理権を求めた。オスマン帝国はこれに応じた。それまで、聖地管理権を持っていたロシアは。東方正教会の保護を名目にオスマン帝国に宣戦布告した。

聖地管理権

 同じ頃、48年革命で大統領になったフランスのルイ=ナポレオンは、オスマン帝国に対して聖地管理権を要求した。この聖地管理権は、イェルサレム教会の管理権で代々フランスが管理していた。しかし、フランス革命時にこれを放棄した。

オスマン帝国を支援する英仏

 イギリスとフランスは。ロシアの南下(地中海への進出)を阻止するため、オスマン帝国を支援した。

 主戦場は、黒海北岸のクリミア半島で、この戦争はクリミア戦争と呼ばれるようになる。

ロシアの敗戦

 ロシアでは、ニコライ1世が死亡。ロシアは敗戦した。56年、パリ条約を締結。黒海の中立化と40年のロンドン条約の取り決めを再確認した。

クリミア戦争後のヨーロッパ

 ロシアは、この敗戦をうけて、国内の改革に中止するようになった。

 イギリスは、インド大反乱で混乱。

 オーストリアは、48年革命で始まった独立運動の対応で混乱していた。

 プロイセンは、ドイツ統一に向けて混乱していた。

 その結果、フランスのナポレオン3世が中心に回り始めた。

(ロシア)アレクサンドル2世の改革

農奴解放令

 ニコライ1世の後を継いだのは、アレキサンドル2世であった。アレキサンドル2世は、クリミア戦争の敗北を受けて、61年に農奴解放令を出した。

 農奴解放令は、農奴に人格的自由を認めた。土地は、有償で売却された。そのため、貴族は個人ではなくミールと呼ばれる農村共同体へ売却された。

ポーランド

 ポーランドは、ウィーン体制によってロシアの事実上の支配(同君連合)をうけるようになった。

 ロシアがクリミア戦争に敗北。63年、ポーランドで独立運動が行った。しかし、翌64年に鎮圧された。

 これをうけて、皇帝アレキサンドル2世は、反動政治を始めた。

ナロードニキ

 皇帝が反動政治をはじめると、改革の担い手は都市の知識階級に移った。かれらはインテリゲンツィアと呼ばれた。

 彼らは、ミール(農村共同体)を基礎に社会主義改革の実現を行おうとした。彼の考えは『ヴィ=ナロード(人民の中へ)』の標語にまとめれらた。そのため、この運動に参加した人は、ナロードニキと呼ばれた。

 ナロードニキに、農民は同調しなかった。そのため、ナロードニキはテロ活動を開始した。皇帝アレキサンドル1世を暗殺した。

(イギリス)ヴィクトリア女王

ヴィクトリア女王の全盛期

 37年、ヴィクトリア女王が即位。1901年までの50年間女王の地位についていた。イギリスは全盛期を迎える。51年には世界初の万国博覧会が開催されたのもこのころである。

保守党と自由党

 政治では、二大政党制が確立された。保守党と自由党である。

保守党自由党
トーリ党(王党派)前身ホイッグ党(反王党派)
農村(地主)主な支持層都市部(工場主など)
ディズレーリ主張な政治家グラッドストン

選挙法改正

 自由党と保守党は、勢力拡大のために相手の支持層の反対勢力に選挙権を与えた。

 67年の第2回選挙法改正で、保守党は都市部で票を獲得するために都市労働者に選挙権を与えた。

 70年代、都市労働者が選挙権を獲得すると、労働者向けの政策が実現した。初等教育の整備や、労働組合法の制定はの時期に確立した。

 84年の第3回選挙法改正では、自由党は農村部で票を獲得するために農村労働者(小作人)に選挙権を与えた。

アイルランド

 アイルランドは、ナポレオン戦争時(19世紀初頭)に、イギリスに併合された。

 19世紀前半、審査法廃止やカトリック教徒解放令で参政権を拡大した。しかし、経済的には、イギリスの不在地主の支配を受けていた。

 40年代、ジャガイモ飢饉。多くのものは餓死し、100万人以上の人が移民としてアメリカに渡った。

 86年、自由党グラッドストン首相はアイルランド自治法を提出。これに反対したジョセフ=チェンバレンらが離党。アイルランド自治法は議会を通過しなかった。アイルランド問題は20世紀へ持ち越された。

 一方、自由党は多くの離党者を出して衰退。代わりに台頭したのが労働党である。20世紀から現在まで、保守党と労働党の二大政党制の時代に入る。

帝国主義へ

 70年代不況によって、イギリスは海外植民地を重要視するようになった。

 元自由党のジェセフ=チェンバレンは、90年代に保守党内閣の植民地大臣になった。

(フランス)ナポレオン3世

ナポレオン3世

 48年革命で、皇帝ナポレオン3世が誕生した。

 農村部の支持を集めて皇帝になった。そのため、自由貿易政策をすすめた。英仏通商条約もその一環である。国内産業の育成にも努め、パリで万国博覧会を開催した。渋沢栄一(参照、2021大河ドラマ『青天を衝く』パリ編)がみたのはナポレオン3世時代のパリである。しかし、自由貿易促進したため工業化はほかのヨーロッパ諸国から出遅れる。一方で金融資本は大きく成長した。

 海外植民地の獲得も進めた。アロー戦争(清王朝)、インドシナ出兵、メキシコ出兵などである。一方で、幕末の徳川政権への資金提供を模索したり、スエズ運河の建設にも尽力したりした。

 メッテルニヒのかわりに、ヨーロッパに新秩序をもたらした。クリミア戦争やイタリア統一戦争に参加した。 

普仏戦争

 しかし、メキシコ出兵の失敗でナポレオン3世は支持を失った。普仏戦争でナポレオン3世が捕虜になると、パリで蜂起。70年9月、第二帝政が崩壊。資本家らによる臨時国防政府が成立。ドイツと講和した。

パリ=コミューン

 70年9月、第二帝政が崩壊。臨時国防政府が成立。翌71年1月、臨時国防政府はドイツに降伏。屈辱的な講和条約を締結した。パリ市民はこれに激怒した。71年3月、革命的自治政府パリ=コミューンを樹立した。

 臨時国防政府は、ドイツの支援を得てようやくパリ=コミューン政府を倒した。75年に新憲法を制定。第三共和政が始まった。

 ちなみに、岩倉使節団が見たフランスは、パリコミューンの内戦期のフランスである。パリ万博時の華やかさはなく衝撃を受けた。

イタリアの統一

マッツィーニ

 48年革命で、イタリアには統一へ向けて動き始めた。北イタリアでは、オーストリアからの独立運動が展開。サルディーニャ王国はこれを支援した。中部遺体リアでは、「青年イタリア」のマッツィーニがローマへ侵攻。ローマ教皇を亡命させ、ローマ共和国を建国した。

 北イタリアの独立は失敗。中部イタリアでは、ナポレオン3世がローマへ侵攻。ローマ共和国は崩壊した。

サルディーニャ王国とカブール首相

 サルディーニャ王国では、ヴィットーリオ=エマヌエール2世が即位。首相に自由主義者のカブールを迎えた。

 サルディーニャ王国は、ナポレオン3世(フランス)と密約を締結。59年、北イタリアをめぐり再びオールトリアへ侵攻した。これにより、サルディーニャ王国は北イタリアの大部分を獲得したが、ナポレオン3世が単独講和をしたのでヴェネツィアなどの未回収のイタリアが残った。

ガリバルディと南イタリア

 南イタリアは、スペイン=ブルボン朝が支配していた。60年、ガリバルディによって両シチリア王国はスペイン=ブルボン朝から独立。ガリバルディは、この地をサルディーニャ王国に献上した。

イタリア王国

 61年3月、サルディーニャ王国はイタリア王国になった。66年の普墺戦争時にヴェネツィアを併合。70年の普仏戦争時にローマ教皇領を併合した。

ドイツの統一

オーストリアとプロイセン

 ドイツは、10年代のウィーン会議でオーストリアを盟主とするドイツ連邦が形成された。

 34年、今度は、プロイセンを中心としたドイツ関税同盟を結成。ここにはオーストリアは参加していない。

 そして、48年革命が発生。フランクフルト国民議会が招集された。ここでは、オーストリアを中心とする大ドイツ主義とプロイセンを中心とする小ドイツ主義が対立した。当時、オーストリアはメッテルニヒを失ったほか、諸国民の春と呼ばれる独立運動で近らしていた。そのため、小ドイツ主義で話がまとまった。

 当時、プロイセンは三月革命(48年革命)で自由主義内閣が成立していた。しかし、49年になると、自由主義内閣は退陣。ユンカー(貴族)を中心とした保守的な内閣に変わっていた。そのため、フランクフルト国民議会の提案を拒否。ドイツ統一は実現しなかった。

ビスマルクと戦争

鉄血政策

62年、ユンカー出身のビスマルクが首相に就任。軍備を拡張し、武力によるドイツ統一を目指した。この政策を鉄血政策という。

vsデンマーク

 64年、オーストリアとともに北欧のデンマークへ侵攻。領土を拡大した。

vsオーストリア

 66年、オーストリアに宣戦布告。オーストリアに勝利。オーストリアを盟主にしたドイツ連邦は解体。プロイセンを盟主にした北ドイツ連邦が成立した。

vsフランス(ナポレオン3世)

 70年、スペイン=ブルボン家の王系継承問題から普仏戦争が始まった。9月、プロイセン軍はナポレオン3世を捕虜に。これにより、フランス第二帝政が崩壊。翌71年1月、フランス臨時国防政府と講和した。

 ビスマルクは、フランスがドイツへ侵攻しないように厳しい講和条件を突きつけた。その内容から、パリでは、自治政府パリ=コミューンが成立した。

ドイツ帝国の成立

 71年1月、ヴェルヘルム1世は、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でドイツ帝国の成立を宣言した。

 ドイツ帝国では、男子普通選挙を実施。議会が成立した。ドイツの議会は権限が制限され、首相は皇帝にのみ責任を負った。

ドイツ帝国の政治

 ビスマルクは、南ドイツのカトリック教徒がフランスやオーストリアと結んで反乱を起こすことを警戒。カトリック教徒の弾圧を行った。この政策を文化闘争といった。

 同じ頃、社会主義者も台頭。75年に社会民主党が成立した。ビスマルクは、当初社会主義者に警戒はしなかった。しかし、78年に皇帝狙撃事件が発生。社会主義者鎮圧法を制定。社会主義者の弾圧を始めた。

 一方で、普通選挙をとっていたので労働者への理解も必要であった。そのため、社会保障制度が充実した。

 また、保護関税政策で工業化が促進。イギリスに迫る工業国になった。

ビスマルク外交

 ドイツ帝国成立後のビスマルクは平和外交に努めた。73年、オーストリア、ロシアと三帝同盟を締結。しかし、これが次の悲劇を生んだ。

露土戦争とベルリン会議

 70年代に入ると、オスマン帝国下のバルカン半島で独立運動が展開された。ロシアはパン=スラブ主義を掲げて、この独立運動を支援した。

 77年、三帝同盟で干渉うけないことを確認して、オスマン帝国へ侵攻した。露土戦争である。

 78年、ロシアは勝利。サンステファノ条約を締結。保護国のブルガリアを通じて、念願の地中海進出を果たした。

 しかし、これにイギリスとオーストリアが反発。同78年ビスマルクはベルリン会議を招集した。サンステファノ条約を破棄し、改めてベルリン条約が締結された。

 ブルガリアは、ロシアの保護国として独立は認められたが地中海沿岸部はオスマン帝国に返還させれた。

 ロシアは、地中海進出をあきらめて中央アジアや東アジアへの進出を進めていく。これが20世紀初頭の日露戦争につながる。

ベルリン会議後のビスマルク外交

 ベルリン会議によって、ヨーロッパの国際関係はいったん崩れた。ビスマルクはその構築に動いた。

 81年、ドイツ、オーストリアとロシアは三帝同盟を復活された。82年、フランスとイタリアが対立すると、ドイツは、オーストリア、イタリアと三国同盟を締結した。しかし、この同盟の裏には、未回収のイタリア問題を含んでいた。

 87年、バルカン問題でオーストリアとロシアが対立。三帝同盟は解消された。ドイツとロシアは、再保障条約を締結した。

北欧

スウェーデン

 18世紀初頭の北方戦争に敗北。バルト海の制海権をロシアに奪われた。その後、北ドイツの領土もプロイセンに奪われた。

 19世紀初頭、憲法制定し、立憲君主制へ。責任内閣制が課t区立した。

ノルウェー

 ウィーン会議で、スウェーデン領になった。その後、1905年に独立した。

デンマーク

 64年、オーストリア・プロイセン連合軍に敗戦。農業と牧畜にを主とする国づくりに努めた。

フィンランド

 フィンランドは、スウェーデンの領土であった。しかし、ナポレオン戦争時の1809年にロシアに割譲された。

概要

 北欧3か国は、立憲君主制を採用。議会の権限が強化され、政治経済面で安定した。外交では、列強主導の国際政治に関与せず自主的な平和路線をとった。

国際組織

社会主義

 48年革命時のドイツで、マルクスは『共産党宣言』を発表した。

 64年、マルクスを指導者にした社会主義者の団体として第1次インターナショナルを結成。

 しかし、パリ=コミューンの弾圧を受けて、70年代に解散した。

赤十字条約

 ナイチンゲールは、50年代のクリミア戦争で敵味方関係なく看護活動を行った。

 その意志は、デュナンに引き継がれ、60年のイタリア統一戦争で医療活動に従事

 64年、戦争犠牲者の救援を目的とした赤十字条約が締結された。

 これ以外にも郵便や電信に関する国際機関が発足した。

オリンピック

 フランスのグーベルタン男爵は、オリンピックの復活を提唱した。そして、1896年、ギリシャで第1回近代オリンピックが開催された。

 当時のフランスは、露仏同盟を締結し国際的孤立から脱却しつつある時代であった。

 また、オリンピックが行われたギリシャは、19世紀前半にオスマン帝国から独立したばかりの小国である。オリンピックの開催で存在感を示そうとした。

 この後、ギリシャのあるバルカン半島はヨーロッパの火薬庫と呼ばれるほど危険な地域となった。そのため、第2回以降は、参加国が持ち回りで開催することになった。