前回の復習 1840年代のイタリア
イタリアは、多くの国に分割されていた。北部はオーストリアなどに、中部はローマ教皇などに、南部は、スペイン=ブルボン家などに支配されていた。フランスで二月革命が起こると、イタリア各地で蜂起が起きた。この中心人物が青年イタリアのマッツィーニである。
青年イタリア
革命後の活躍
34年、サルディーニャ王国は、マッツィーニを逮捕。国外追放にした。
マッツィーニは、スイスへ亡命した。青年ポーランドや青年ドイツの代表と会い、神聖同盟に対抗できる組織の結成を模索した。のちに、青年フランスもここに参加した。これに警戒したスイスは、37年マッツィーニを国外追放した。
マッツィーニは、ロンドンへ亡命。ここで、マッツィーニは貧しいイタリア移民に英語教育を行った。マッツィーニは、ここで第一次チャーチスト運動を目の当たりにする。
同じ頃、ガリバルディも亡命。南米へ向った。イタリア移民を使って軍隊を組織した。この軍隊の活躍はイタリア各地の報じられた。
サルディーニャでの蜂起
マッツィーニは、オーストリアからの独立にむけて、サルディーニャ王国で蜂起した。この蜂起には、若き日のガリバルディも参加した。
しかし、サルディーニャ王国は、共和政を主張するマッツィーニを逮捕。国外追放処分にした。
青年イタリアの結成
(前史)カルボナリ
20年から21年にかけて、オーストリアからの独立のために、ナポリ(北イタリア中部)やピエモンテ(北イタリア東部)で蜂起した。その中心が秘密結社カルボナリであった。
青年イタリアの結成
マッツィーニは、31年12月に青年イタリアを結成。近代政党として結成された。理念は、他民族支配と分裂状態のイタリアを自由・独立・統一することであった。
七月革命
フランスの七月革命
30年、フランスで七月革命が発生。国王が亡命。ルイ=フィリップが新国王に即位。大資本家を中心とした七月王政が成立した。
イタリアへ波及
七月革命は、イタリアに波及した。中部イタリアの国々では自由主義者による革命が発生。革命政府が成立した。革命政府はローマ教皇の世俗による統治を否定した。
オーストリアによる鎮圧
31年3月、オーストリア軍が侵入。革命政府は倒れた。