1800年代のイタリア ナポレオンのイタリア遠征

前回の復習 1810年代のイタリア

 1810年代、ナポレオン戦争が終結。ウィーン会議でイタリアはフランス革命以前の状態に戻った。しかし、スペイン立憲革命をきっかけに再び市民革命の波が起こり始めた。

 さて、1800年代のイタリアでは、前半ではナポレオン戦争時のイタリアの様子を見ていき、後半ではナポレオンとローマ教皇の関係を見ていきます。

ナポレオン戦争

激戦地としてのイタリア

 イタリアは、ナポレオン戦争時に2度戦場になっている。96年と99年である。

 当時、北イタリアは、神聖ローマ帝国とフランスの係争地であった。

ナポレオン戦争以前のイタリア

 ナポレオン戦争以前のイタリアは、ほぼウィーン体制と同じ状況であった。

  • 北部 神聖ローマ帝国
  • 中部 ローマ教皇領
  • 南部 両シチリア王国(スペイン=ブルボン家)

 サルディーニャ王国は、神聖ローマ帝国内の諸侯国の一つであった。

ナポレオンの登場

 ナポレオンは、フランス革命以前に軍人になった。ジャコバン政権時代には、ロベスピエールを支持。頭角を現した。

94年7月、テルミドール9日のクーデターでジャコバン政権が崩壊。ナポレオンも投獄。処刑寸前までいった。

この時、旧王党派の武装蜂起が発生。ナポレオンはこの鎮圧に協力。新政府(総裁政府)の厚い信頼得る。

第1次イタリア遠征

 96年、総裁府は神聖ローマ帝国への総攻撃を開始した。フランスは3ルートからの侵攻を検討していた。ライン川の北、ライン川の南、そして北イタリアである。

 ナポレオンが担当したのが北イタリアである。ナポレオンはここで快進撃を進める。しかし、ライン川での侵攻は思うように進まなかった。

 97年2月、ナポレオンはウィーンに向けて進軍を開始。4月、神聖ローマ皇帝の申し入れで停戦。10月に講和した。オーストリアは第1次対仏大同盟から離脱した。北イタリアにはフランスを支持する共和国が成立した。なお、オーストリアはこの時にヴェネツィアを併合した。

ローマ教皇領へ侵攻

 翌98年1月、オーストリアの敗北を受けて、スウェーデン主導でフランス革命戦争の講和会議が開催。しかし、オーストリアのメッテルニヒなどの策略で講和に至ることができなかった。

 98年2月、総裁政府は中部イタリアのローマ教皇領へ侵攻。ローマ教皇は南イタリアへ亡命。フランス政府はローマ共和国を建国した。

 同98年8月、総裁政府は、ナポレオンを総司令官としてエジプト遠征へ向った。イギリスはこれに激怒した。

 同98年12月、エジプト遠征に激怒したイギリスと復讐に燃えるオーストリア(メッテルニヒ)などを中心に第二次対仏大同盟が結成される。

第2次イタリア遠征

 第二次対仏大同盟が結成されると、オーストリアは北イタリアへ侵攻した。ナポレオンは、エジプト遠征でヨーロッパにいなかった。一方、オーストリアはロシアの援軍を得ていた。そのため、北イタリアは瞬く間にオーストリア領になった。

 99年11月、ナポレオンはエジプトから緊急帰国。ブリュメール18日のクーデターを起こし総裁政府を倒す。

 翌1800年、北イタリアへ侵攻。オーストリア軍を一掃。01年、オーストリアとの和平が成立した。

ナポレオンとローマ教皇

ナポレオン戴冠式

 1800年代は、ナポレオン戦争の時代である。最初にローマ教皇とナポレオンの関係を見ていきます。

 04年5月、国民投票によって、ナポレオンの世襲が決定。ナポレオンはフランス皇帝になった。

 同04年12月、パリ(フランス)のノートルダム大聖堂でナポレオンの戴冠式を行った。この戴冠式を行ったのがローマ教皇である。

 これにより、神聖ローマ皇帝は、オーストリア皇帝になった。

 これは異例の戴冠式である。本来、戴冠式は教皇庁のあるローマで行われる。しかし、この戴冠式は、ローマ教皇が出張してフランスで行われた。それは何故であろうか。 

ローマ教皇との和解

 01年、ナポレオンは、ローマ教会と和解。第1次イタリア戦争で奪った教皇領をローマ教会へ返還した。これにより、ローマ教会とナポレオンの関係は良好になり、04年の戴冠式につながった。

 当時のナポレオンは、宥和政策を行っていた。国内の宗教対立を緩和。元王党派や元ジャコバン派でも軍や官僚に採用した。また、亡命貴族の帰国を進めた。一方で、体制に反抗的な過激派は次々と弾圧した。

ローマ共和国

 18世紀末の総裁政府時代、ナポレオンは第一次イタリア遠征を行う。この時にローマ教皇領も侵攻。98年2月、ローマ教皇はローマ脱出。ナポレオンは、旧教皇領の中部イタリアにローマ共和国を建国した。

フランス革命とローマ教会

 ローマ教会はアンシャンレジーム(旧制度)の代表的な存在であった。ローマ教会に所属するカトリック系の教会は、フランスの領主的な地位を得ていた。

 フランス革命によって、ローマ教会は大きな打撃を受けた。教会財産は没収。ローマ教会の収入源であった十分の一税も廃止された。

 さらに、ジャコバン政権下では、非キリスト教運動を展開した。これにより、ローマ教会とフランスの関係は最悪のものとなった。

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