1世紀のエジプト ローマ帝国の属州として

2世紀のエジプト

 エジプトは、紀元前1世紀にローマ帝国に属州になり、その後、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)にひきつがれた。エジプトはローマ帝国中で、経済力のある有数の植民地であった。

 後半では、ローマ帝国について見ていきます。3世紀のローマ帝国は、軍人皇帝時代の戦乱の時代であった。今回の2世紀は五賢帝の平和な時代を見ていきます。

属州となったエジプト

属州とは

 属州とは、ローマ帝国の征服地である。ローマ帝国から総督が派遣され、十分の一税という租税が課せられた。

ローマ帝国にとってのエジプト

 総督には、元老院の議員が務めた。しかし、エジプトの総督は、騎士階級がついた。それは、初代皇帝オクタウィアヌスが自分の側近を総督としたためである。すなわち、エジプトはほかの属州と異なり、事実上皇帝の直轄地とされた。

ファラオと皇帝

 ローマ帝国が征服する前、エジプト王はファラオとされていた。ファラオは神である。そのため。オクタウィアヌスは、クレオパトラの死後、エジプトを統治するためにふさわしい地位が必要になった。

 そこで登場したのが、アウグストゥス(尊厳者)の称号である。

1世紀のローマ帝国

ネロ帝

 1世紀半ば、ネロ帝が即位。当初、ストア学派の哲学者の補佐で善政を敷いた。しかし、晩年は乱行を繰り返した。特にローマ大火が発生した際に、キリスト教徒が犯人とされた。そのため、キリスト教徒の大迫害が行われた。

 伝道師であったペテロやパウロもこの時に処刑されたといわれている。また、ローマ教会(サン・ピエトロ教会)は、伝道師ペテロの墓所とされている。

 ただ、当時のキリスト教は新興宗教の一つで、それほど大規模な組織ではなかった。

キリスト教がローマへ

 30年頃、イエスが亡くなる。その後、弟子たちの間でイエスが復活したという信仰が生まれた。弟子たちは、イエスに代わり、イエスの考えを広めようという考えが始まった。これが、キリスト教の始まりである。

 伝道の中心になったのが、ペテロであった。さらに、パウロは、ユダヤ人以外への布教を提案。ローマ帝国各地で布教活動が行われた。

 小アジア(トルコ)、シリアやギリシャでも布教が行われた。

 エジプトでは、42年頃にキリスト教の布教が始まった。

 そして、60年頃、伝道師ペテロとパウロは、首都ローマを訪れた。

キリスト教の成立

イエスは、ユダヤ人として1世紀にパレスチナに生まれた。

 当時のパレスチナは、ローマ帝国の属州であり、ローマ帝国の総督が統治していた。当時の総督はピラトであった。それをサポートしたのが、ユダヤ教徒の祭司(宗教指導者)であった。彼らは、律法を重んじるパリサイ派と呼ばれた。

 イエスは、パリサイ派の形式主義を批判。神の前では平等を説いた。イエスの考えは、ユダヤ人の貧困を中心に広まった。ただ、イエス自身はパリサイ派を批判したのみでユダヤ教の改革運動として動いていたにすぎなかった。

 パリサイ派の人々は、これを脅威に感じた。そのため、総督ピラトに訴えた。総督ピラトは、この訴えを聞き入れ、イエスを処刑した。

 キリスト教がユダヤ教徒を迫害する理由のひとつに、イエスを処刑に導いたことがある。なお、このイエスが処刑された地には現在聖墳墓教会が建てられている。30年頃のことであった。

共和政ローマから帝政ローマへ

 紀元前27年、元老院は、オクタウィアヌスにアウグストゥス(尊厳者)の称号を与えた。アウグストゥスがのちの皇帝を意味するようになる。

 当時のローマ皇帝は、元老院(貴族)との関係は良好であった。