1910年代の東南アジア インドネシアのイスラム同盟

1920年代の東南アジア

 1920年代に入ると、植民地化された東南アジアでは独立運動が活発化してくる。

 今回は、その要因となった第一次世界大戦とロシア革命を見ていきます。

第一次世界大戦と東南アジア

ロシア革命と共産党

 東南アジアの歴史を見る前に、1910年代の国際情勢を見ていきます。

 第一次世界大戦で疲弊したロシアでは、17年にロシア革命が発生。ソビエト連邦が成立した。19年3月にコミンテルン(第三インターナショナル)を結成。各国に共産党を結成するようになった。東南アジアの共産党もコミンテルンの支援を受けた。

第1次世界大戦の影響

 14年、第一次世界大戦が勃発。この戦争は総力戦となり、植民地からも物資や軍隊の支援を求めた。その見返りに自治権を約束していった。イギリスの三枚舌外交はこの時代の話である。

 ロシア革命で、レーニンが「平和に関する布告」を発表。これに呼応する形で、アメリカのウィルソン大統領は「平和銃ヨン原則」を発表。この2つの声明で「民族自決

辛亥革命

 63年11月、ケネディ大統領が暗殺。副大統領のジョンソン氏が大統領に就任した。

 64年8月、トンキン湾でアメリカ海軍が北ベトナムの行来攻撃を受ける。(トンキン湾事件)これをうけて、アメリカ議会は北ベトナムへの宣戦布告を決議。

 65年、ジョンソン大統領は北爆を開始。

南ベトナムで親米政権崩壊

 60年大統領選に勝利した民主党のケネディ大統領は、積極的に南ベトナム政府を軍事支援した。

 63年11月、軍部によるクーデター。アメリカ軍はこれを黙認した。アメリカは政権交代で反政府組織(南ベトナム解放戦線)との和平の道を探った。しかし、内戦は収まらなかった。

南ベトナム解放戦線

 60年、南ベトナムの社会主義勢力である南ベトナム解放戦線が挙兵した。これを支援したのは、北ベトナムのホーチ=ミン政権である。南ベトナムの社会主義革命が、ベトナム戦争の始まりである。

ベトナム戦争以前のベトナム

 ベトナム戦争以前のベトナムはどのようになっていただろうか。

 ベトナムは、南北で2つの国家に分かれていた。ホーチ=ミンらベトナム共産党が統治する北ベトナムとアメリカの支援を受けている南ベトナムである。

 ベトナム戦争は、南ベトナムの内戦から始まる。

イスラム同盟(インドネシア)

イスラム同盟

 12年、インドネシアでイスラム同盟が結成された。

 結成の中心にいたのは、ジャワ島中部のイスラム教徒の手工業者であった。

 当時のインドネシアは、オランダの植民地であった。中国系商人(華僑)の進出に対抗するために組織された。

 イスラム同盟の当初の目的は、自治権の要求であった。しかし、14年に第一次世界大戦が勃発。食糧不足が発生。強制栽培制度で商品作物の生産に移行していた農民たちが困窮した。これにおり、オランダ本国政府に対し、不満が爆発。自治権の要求から独立への動きへ転換していった。

オランダの植民地統治の転換

各地のイスラム勢力

 65年9月、共産党系の軍部がクーデターを実施。これはスハルト氏らによって、鎮圧された。(9・30事件)。

 スハルトは、この事件を利用して共産党員を大量に処刑した。

スカルノ大統領は、内閣改造で政権を維持しようとした。しかし、スカルノ糾弾の声が高まり、スハルト氏に政権を譲った。

フィリピン独立の動き

 インドネシアの独立の父はスカルノ大統領である。スカルノ大統領をバックで支えたのがインドネシア共産党である。

 61年、中国インドネシア友好条約

トンズー運動(ベトナム)

トンズー運動

 00年代後半、多くのベトナム独立運動家は、日本へ密航。

若きホーチ=ミン

 この頃、ホーチ=ミンは日本ではなく、宗主国のフランスにわたっていた。

 11年、フランスにわたり、フランスの貧困層との交流を深める。ここで社会主義を知る。

 14年、第一次世界大戦に遭遇。

 19年、ヴェルサイユ講和会議。民族自決の流れからベトナムの独立を夢見る。しかし、これは実現せず。

 20年、フランス共産党創立大会に参加。その後、ソ連(ロシア)にわたる。 

タイ国王 ラーマ6世

 大陸部のタイでは、10年にラーマ6世が即位した。

 ラーマ5世の子で、イギリスへの留学経験を活かし、父ラーマ5世の近代化政策を継承した。

 第一次世界大戦もイギリス陣営で参戦。20年に、原加盟国として国際連盟に参加した。

 25年に崩御。子がなく、弟のラーマ7世が引き継いだ。

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