前回の復習 2世紀のイタリア
古代ローマは、共和政ローマとローマ帝国の時代である。ローマ帝国の歴史は次のような流れになる。
- 4世紀 専制君主制の時代
- 3世紀 軍人皇帝の混乱期
- 2世紀 五賢帝の全盛期
- 1世紀 初期の帝政とネロ帝
- 紀元前1世紀 カエサルと三頭政治の時代
今回も、テーマはローマ教皇である。グレゴリウス13世について見ていきます。
五賢帝時代がなぜ始まったのか
五賢帝時代の前は、フラウィウス朝の時代であった。初代と2代目の皇帝は善政を引いていた。しかし、3代目の皇帝が暴君になった。
3代目の皇帝は、元老院と対立。気に入らない元老院議員を次々と処刑。第2のネロ帝といわれた。そのために、96年、皇帝は暗殺された。これにより、フラウィウス朝は断絶した。
元老院は、ネルウァを次の皇帝に指名した。ネルウァは中部イタリア出で、元老院議員の家系である。法律の専門家として名をはせていた。66歳の高齢である。ネルウァ帝は、元老院から高い支持を得ていた一方で、軍人からの人気はなかった。
翌97年、ネルウァは、後継者としてトラヤヌスを養子に迎える。彼は、属州スペイン(ヒスパニア)出身の軍人で、当時はゲルマン民族との戦いでローマを離れていた。
98年、ネルウァ帝が崩御。軍人からも元老院からも支持を得たトラヤヌス帝が即位。五賢帝時代はこのようにして始まった。
以後、慣習とした、優秀な人材を後継者として養子に迎える様になった。これにより、優秀な皇帝が続くようになった。
ローマ帝国の仕組み
皇帝とは
ローマ帝国初期の皇帝は、プリンケプス(市民の中の第一人者)の意味を持っていた。共和政時代の伝統を踏襲していた。
元老院
元老院は、もともとは執政官の諮問機関である。政治的権力はまったくなかった。しかし、民会が事実上機能が停止。元老院が事実上の国会を意味するになった。
元老院は、終身議員で基本的にメンバーが変わらない。議員がなくなると、執政官経験者などから新しい議員が選出される。
元老院の主な役割は2つである。皇帝などの要職の人選と法律の決定である。
ネロ帝後のローマの皇帝
ポンペイの噴火
79年、ウェスパシナヌス帝が崩御。長男が皇帝に即位した。この年は更に不幸が続いた。南イタリアで火山が噴火した。ポンペイの噴火である。1万人以上の人々がナポリへ避難した。
2代皇帝は、災害復興に尽力した。しかし、81年に崩御。弟が即位した。
パンとサーカス
ウェスパシナヌス帝は、3つの政治課題を負った。
- 財政再建
- ローマ大火からの再建
- ユダヤ人の反乱
ウェスパシナヌス帝は、様々な間接税を貸すことで財政を再建させた。一方で、増税に対する不満を払拭するためアメ政策も行った。これが「パンとサーカス」である。
ローマのコロッセオはこのときに建設された。
ユダヤ人の反乱
66年のネロ帝の時代。ユダヤ人の反乱が属州イスラエルで起こった。ネロ帝は、ウェスパシナヌスを司令官として鎮圧軍を送った。
ユダヤ人の反乱は苦戦。さらに、68年にネロ帝の廃位でローマは4皇帝の混乱期に入る。
69年に、4皇帝時代が終わると、再びユダヤ戦争が再開。翌70年、都イェルサレムが陥落。ユダヤ戦争は事実上終わった。(実際は、一部のユダヤ人が抵抗を続け74年まで実際は続いた。)
4皇帝時代
ネロ帝が退位されると、多くの有力者が軍人の指示を集めて皇帝を主張するようになった。皇帝の座をめぐり戦闘が繰り返された。
69年、元老院はユダヤ戦争の英雄ウェスパシナヌスを皇帝に指名。これによりフラウィウス朝が成立した。
暴君ネロ帝
暴君と賢帝
暴君と賢帝の違いは、元老院(国会)との関係である。
元老院はあくまで諮問機関であるため、皇帝は元老院の承認を受けなくても政治を行うことができる。しかし、それは独裁である。そのため、皇帝たちは元老院の承認を得ることで、ローマ市民の相違で政治を行っていることを示した。
ネロ帝などの暴君は、元老院の承認を受けずに政治を行ったり、反対派の議員を処刑して皇帝に近い議員を元老院に送り込んだ。
一方、賢帝とは、元老院との関係が良好で、元老院の承認を得ながら政治を行うことができた皇帝をいう。
ネロ帝の自殺
68年、元老院はネロ帝の廃位を決定。その後、ネロ帝はじさつした。これで、アウグストゥスの血を引くユリウス朝は断絶した。
元老院は次の皇帝に、騎士階級出身のウェスパシアヌス帝を指名した。彼は、ユダヤ人の反乱の鎮圧で功績を上げた。
では、元老院はなぜネロ帝を廃位したのであろうか。晩年のネロ帝はギリシャにいることが多かった。1つは、ユダヤ人などの反乱の鎮圧のためである。しかし、もう1つ理由があった。当時のギリシャはヨーロッパ最大の都であり、繁華街であった。ネロ帝は、ギリシャで演劇や音楽に熱中。67年には、古代オリンピックにも参加している。
キリスト教の迫害
ネロ帝が暴君と言われる事件が、64年のローマの大火である。ローマでは、ネロ帝が新都市計画を思いついて火をつけたとの噂が立った。
ネロ帝は、この噂を払拭するために、キリスト教徒の放火が原因と発表。キリスト教徒の大迫害を実施した。
キリスト教は、 30年ほど前30年のキリストの復活をきっかけに始まったとされる属州イェルサレムの新興宗教であった。ペテロやパウロによってローマ帝国内に広まりつつあった。
当時のローマは、ユダヤ戦争の真っ只中にあり、属州イェルサレムからきたペテロやパウロは敵視されていた可能性もある。これがキリスト教の迫害に繋がったかは不明である。
ペテロやパウロはネロ帝期の大迫害で殉職した。現在、ペテロの墓の上にはサン=ピエトロ大聖堂がある。
即位時の善政
ネロ帝は、54年に皇帝に即位した。当初は、元老院との協調路線をとり、善政をひいていた。これを支えたのがストア派のセネカ氏であった。
60年のユダヤ戦争が始まる頃から、おかしくなった。端的には女性に溺れ始めたのである。南イタリアのナポリでは連日皇帝のリサイタルが開かれた。また、ローマ市民の要求に答え、ローマでもカーニバルが開催された。これにより、ローマ帝国の財政は破綻した。
母やセネカ氏も諌めたが、ネロ帝により殺された。そのようなさなかで起きたのがローマの大火である。ネロ帝の政策に不満を感じる一部のローマ市民は、ネロ帝の放火ではないかと推測し始める。
アウグストゥス家の時代
初代皇帝アウグストゥスには男子はいなかった。そのため、妻の連れ子が2代目皇帝についた。この王朝を、アウグストゥスのユリウス家と妻の家系であるクラウディウス家を取り、ユリウス=クラウディウス朝と呼ばれた。
この時代の皇帝は、女性問題の多い皇帝が多く、元老院としばしば衝突した。そのため、政治は安定しなかった。これにより、軍人の発言力が大きくなった。