復習 16世紀後半の東南アジア
東西から大国が進出した時代である。東では、太陽の沈まぬ国スペインが寝室した。一方で、西では、ミャンマーのタウングー朝が全盛期を向ける。タイのアユタヤ朝が征服される。
今回は、ポルトガルの東南アジア進出を見ていきます。
16世紀前半の国際情勢
日本は戦国時代。キリスト教や鉄砲が伝来した時代である。世界は大航海時代。ポルトガルやスペインが世界各地に拠点を構築した。
ポルトガル人がマラッカ王国を征服
マラッカ王国
11年、マラッカ王国は滅亡。ポルトガルに征服された。
マラッカ王国は、マレー半島とスマトラ島の間にあるマラッカ島に拠点を置き、マラッカ海峡の通行料で繁栄した国である。マラッカ王国は、14世紀末に成立したイスラム教国である。15世紀初頭の鄭和の大航海によって繁栄した。
マラッカ海峡は、マレー半島とスマトラ島の間にある海峡である。インド洋(ヨーロッパ・アフリカ・中東・インド)から東アジアへ向かう際の最短ルートになる。現在でも海上交通の要所である。
マラッカ王国の時代は、東南アジアの交易はイスラム承認によって支えられていた。しかし、マラッカ王国が滅ぶと、この地域の交易はヨーロッパ諸国(ポルトガル→オランダ)が担うようになった。
ポルトガル
15世紀から16世紀は大航海時代である。その先陣を切ったのがポルトガルである。1498年、パスコ=ダ=ガマがインド(南西部)に到達した。
次に、インドへ向かったのが、アブケルケである。アブケルケは、03年にインド南西部に上陸。10年にインド南西部のゴアを占領した。その翌年にマラッカ王国を征服した。以後、アブケルケはインド洋沿岸部にいくつもの拠点を築いた。
アユタヤ朝とポルトガル
アルブルケは、03年にインド南西部に上陸。09年にタイのアユタヤ朝に使節を送る。そして、10年に、アルブルケがゴアを占領。ポルトガル(インド総督のアルブルケ)とタイ(アユタヤ)がマラッカ王国を挟み撃ちにする。これにより、マラッカ王国は滅亡した。
アユタヤ朝は、ポルトガル商人に居住・交易・布教の自由を認めた。これにより、都アユタヤは国際都市として発展した。
ムスリム商人はどこへ
ムスリム商人は、マラッカ王国の滅亡でマラッカ海峡が使えなくなった。代わりに利用したのがスマトラ島とジャワ島の間にあるスンダ海峡が使われるようになった。スマトラ島西部(インド洋側)やジャワ島にムスリム商人の拠点が移った。以下では、この時代にできた東南アジアのイスラム教国を紹介する。
このときに、イスラム教の勢力圏になったところが、オランダの勢力圏になり、現在のインドネシアになっていく。
一方で、ポルトガルの勢力圏はイギリスに引き継がれる。これがマレーシアの原型になっていく。
アチェ王国(スマトラ島北部)
マラッカ王国のイスラム教徒は、スマトラ島北部へ亡命した。
バンデン王国(ジャワ島西部)
11年にマラッカ王国が滅亡すると、多くのイスラム船がジャワ島を訪れるようになった。これで発展したのがジャワ島西部の港町ジャカルタである。
ジャカルタは、その後オランダの拠点になり発展した。現在のインドネシアの首都である。ジャカルタのあるジャワ島西部はバンテンと呼ばれた。現在もこのエリアにバンテン州がある。
余談だが、ジャカルタから電車で3時間、内陸に入った町にバンドンという町がある。この町で1955年バンドン会議(アジア・アフリカ会議)が開催された。バンドンの町にはアジアアフリカ通りというのがある。
その後のバンテン王国は以下の通りである。
- 16世紀後半 オランダの影響を受けるようになる
- 17世紀なかば オランダの保護国になる
- 1808年 王政が停止。オランダ東インド会社の直轄地になる
新マラタム王国
新マラタム王国は、ジャワ島内陸部の小国で稲作を重要な産業としていた一地方政権であった。16世紀の戦乱期に台頭。沿岸部に進出。バンテン王国と戦いながらジャワ島東部の港町を次々支配した。
16世紀後半には、香辛料交易で大いに栄えた。この時の公益相手は、ポルトガル、イギリスとオランダである。
しかし、17世紀に入ると東南アジアの交易はオランダが独占するようになる。17世紀前半には、新マラタム王国とオランダ(オランダ東インド会社)の戦争が始まった。新マラタム王国は、何度もジャカルタ(パタヴィア)を包囲したが、陥落することはなかった。
17世紀末に、新マラタム王国はオランダ(オランダ東インド会社)の保護国になった。
マジャパヒト王国の滅亡
では、15世紀以前のジャワ島はどのような状況であったのであろうか。
15世紀のジャワ島には、マジャパヒト王国によって統一されていた。マジャパヒト王国は、13世紀末に成立したヒンドゥー教国である。
15世紀に入ると、イスラム勢力の支援を受けた地方政権が次々台頭。日本の戦国時代のようになっていた。この中で台頭してきたのが東のバンテン王国と西の新マラタム王国である。
地方政権の台頭により、マジャパヒト王国は次第に衰退。20年、マジャパヒト王国は滅亡した。
マジャパヒト王国の滅亡以降、ジャワ島にヒンドゥー教峡谷が成立することなかった。ジャワ島のイスラム化が完了した。
ヒンドゥー教文化はバリ島で残るだけであった。
マゼラン来航
マゼラン、フィリピン上陸
21年、マゼラン一行はフィリピンのセブ島に上陸した。当時のフィリピンは、それぞれの島に国王がいた。マゼランの船には最新兵器の大砲が積まれており、祝砲が打たれると住民は恐れおののいた。セブ王は、マゼラン一行に入港税を要求。
マゼランは、入港税を拒否。更にキリスト教(カトリック)への改宗を迫った。セブ島の人々は、これを受け入れ、キリスト教に改宗した。
マゼランは、セブ島とその隣の島との戦争に巻き込まれ、死亡した。
マゼランの生涯
マゼランは、元々ポルトガルの航海士であった。
16世紀初頭のフィリピン
オランダとイギリスは、17世紀前半にアジアへ進出した。アンボイナ事件でイギリスが敗北。イギリスは東アジアと東南アジアから撤退。ここからインド経営に注力。一方、オランダは東南アジアと東アジアの交易をほぼ独占した。鎖国政策下の日本も、オランダのみと交易を継続した。
後期倭寇
ミャンマー、タウングー朝の成立
ベトナム、南北朝時代へ
黎朝
この時代のベトナムは黎朝の時代である。黎朝は、15世紀前半に成立した王朝で、18世紀末に滅亡した王朝である。
南北朝時代へ
16世紀に入ると短命の王が続き、王家が次第に衰退していった。その中で台頭してきたのが鄭一族と阮一族であった。
鄭一族は、都ハノイで権力を振るっていた。王家を支えていた。
一方、阮一族は、14世紀に獲得した南ベトナムで次第に力をつけていた。拠点を中部のフエにおいた。
クーデターの発生
では、