16世紀後半の東南アジア スペインとフィリピン

復習 17世紀前半の東南アジア

 17世紀後半は、オランダが勢力を伸ばした時代である。オランダは、イギリスやポルトガルを東南アジア交易から撤退させ、この地域の交易を独占するようになった。これにより、国際交易の拠点はタイのアユタヤからインドネシア(ジャワ島)のジャカルタ(パタヴィア)にうつった。

 この時代、日本の朱印船が東南アジアとの航路を構築していた。山田長政がタイのアユタヤを訪れたのもこの時代である。しかし、日本が鎖国政策を実施。日本との交易はジャカルタに拠点を置くオランダのみとなった。

16世紀後半の国際情勢

 日本は、戦国時代末期。安土桃山時代である。織田信長や豊臣秀吉の時代である。朝鮮出兵が行われた時代である。

 中国では、明王朝衰退期に入っていた。

 イスラム圏では、スーパスターが次々同乗した。インド(ムガル帝国)のアクバル帝、イラン(サファヴィー帳)のアッバース1世、トルコ(オスマン帝国)のスレイマン1世である。これらの国が17世紀のアジアの4大帝国になっていく。

 ヨーロッパは、スペインのフェリペ2世の全盛期であった。

太陽の沈まぬ国スペイン

フィリピン

 フィリピンは、東南アジア諸島部の東にある国である。大西洋と南シナ海に挟まれた国である。

 1521年、マゼラン一行がフィリピンに上陸。71年、スペイン領になる。スペインの統治は、1898年の米西戦争まで続いた。

 スペインの植民地であったため、カトリック(キリスト教)を信仰している。

フェリペ2世のスペイン

 16世紀後半のフィリピンは、フェリペ2世の全盛期である。スペインの他にオランダと南イタリアを統治していた。また、妻はイングランド女王メアリ1世であった。

 16世紀後半は宗教改革の時代である。フェリペ2世は、経験なカトリック教徒である。プロテスタントやユダヤ教徒を弾圧した。これにより、多くの財産が没取され王室財産となった。

 スペインの王室財産を潤したものがもう一つあった。新大陸(アメリカ)のポトシ銀山である。スペイン王室は、ポトシ銀山の銀で多くの財宝を買い集めた。

 しかし、ここからスペインはジェットコースター的に激変している。

 58年、妻メアリ1世が死去。エリザベス女王が即位。婚姻にゆるイングランド支配はできなかった。(この後、イングランドは、ステューアート朝へ移行する。)

 翌59年、フランスと講和。イタリア戦争が集結する。(カトー=カンブレッジ条約)

 68年、スペイン領オランダで反乱。オランダ独立戦争が始まる。

 70年、無敵艦隊がオスマン帝国海軍を破る。(レパントの海戦)

 80年、ポルトガル併合。

 81年、オランダが独立宣言を発表。エリザベス女王のイングランドがオランダ側につく。

 84年、日本のキリシタン大名らが派遣して使節団がスペインに到着

 88年、スペインの無敵艦隊が、イングランド海軍に破れる。

イギリス・オランダの登場

 68年に始まったオランダ独立戦争の舞台は、ヨーロッパだけではなかった。東南アジアや東アジアも舞台になった。

 フィリピンの惨状を見て、タイのアユタヤ朝や日本がこれに危機感を感じた。17世紀に入ると、徳川家康はオランダとイングランドに接近した。徳川家康は、エリザベス女王から大砲を受け取っている。

vs 秀吉

 フィリピンは、16世紀後半に入っても倭寇の襲撃起こった。

 92年、豊臣秀吉から、スペインに降伏勧告の書面が届いていた。スペイン総督は、受託するわけにはいかなかった。一方で、オランダ独立戦争の真っ只中、日本と戦争する余裕もなかった。結果、返事を引き伸ばした。

 その後、豊臣秀吉が死去。17世紀に徳川家康の時代に入る。日本とマニラで朱印船貿易航路が成立した。

ポルトガル併合

 80年、スペインはポルトガルを併合。1640年までこの併合は続いた。スペインは、ポルトガル併合によって、アジアにあるポルトガルの拠点を使うことが可能になった。これが『太陽の沈まぬ国」の由来である。

 しかし、この時代はオランダ独立戦争の真っ只中である。オランダは、ポルトガルの拠点を攻撃した。

国際貿易港 マニラ

 16世紀後半から18世紀にかけて、マニラはスペイン領であった中南米と中国(明王朝、清王朝)との中継貿易で栄えた。中南米の輸出品はポトシ銀山の銀で、メキシコのアカプルコから出港した。中国からは、絹織物や陶磁器が輸出された。

 スペインがマニラを発見したのは、1521年のマゼランの世界一周のときであった。

 アカプルコもフィリピンも赤道付近の国である。貿易風(東から西の風)で、新大陸からフィリピンは簡単に行くことができた。しかし、帰りは逆風で新大陸へ帰る航路は険しいものであった。その後、遠回りして、偏西風に乗る航路が発見された。

 71年、スペインのレガスピがマニラに入城。ここから、フィリピンのマニラ統治が始まる。

スペインの植民地統治

 フィリピンの統治は、アメリカ大陸と同じエンコミエンダ制度が取られた。また、キリスト教(カトリック)の布教が続いた。そのため、原住民のイスラム商人とキリスト教徒の間で戦争が起こった。これがモロ7戦争である。

ミャンマーのタウングー朝の全盛期

16世紀末のタウングー朝

 ここからは、ミャンマーの歴史を見ていきます。17世紀はタウングー朝の時代である。タウングー朝は16世紀に成立。18世紀半ばに滅亡した。

 全盛期は、16世紀後半のバインナウン王の時代である。

 ただ、度重なる戦争で農民が疲弊。農村は荒廃した。バインナウン王が亡くなると、タウングー朝は衰退。17世紀にはいると、イギリスやフランスが台頭。ミャンマーは分裂状態になった。

 以下では、全盛期バインナウン王時代のミャンマーを見ていきます。 

バインナウン王の時代

 バインナウン王は、51年に即位。81年まで国王を努めた。版図を拡大し、タイやラオスまで国土を拡大させた。

 一方で、仏教(上座部仏教)を厚く保護。多くの寺院がこの時代に作られた。

 度重なる戦争で、農村は荒廃。ミャンマーは分裂し、衰退していく。

国際都市アユタヤを征服

 バインナウン王は、ラオスやタイへ遠征した。一時、国際都市アユタヤもミャンマーに支配された。

 その支配は長く続かず、バインな運王がなくなると、81年アユタヤは独立した。その時の王が、ナレースアン王である。その後、アユタヤはナレースアン王の全盛期を迎える。