前回の復習 1920年代のスペイン
第一次世界大戦が終わると、国内外で混乱が生じた。モロッコでは独立運動が展開。国内では、共和主義者が台頭した。軍事独裁政権で一時これが収束した。しかし、独裁が長期化することで、再び共産主義が台頭。30年のスペイン革命へ向かう。
1910年代の国際情勢
1910年代は、第一次世界大戦の時代である。イギリス陣営(三国協商)とドイツ陣営(三国同盟)に分かれて総力戦が展開された。
イギリス陣営には、フランス、ロシア、日本が参加。途中からイタリアやアメリカも参戦した。
ドイツ陣営は、オーストリアやオスマン帝国などが参加した。
インフルエンザの流行
スペイン風邪
インフルエンザの最初の流行は、1918年とされている。当時は、第一次世界大戦中のため感染の情報を開示しなかった。唯一情報を開示していたのは、中立国のスペインだった。そのため、スペインで流行した風邪ということで、スペイン風邪と呼ばれた。
インフルエンザは、戦場を通じて全世界に広まった。
最初の流行はアメリカ
インフルエンザの症例が初めて報告されたのは、アメリカの軍事基地である。18年3月に多くの症例が報告された。前17年4月に参戦しているので帰国した兵士が持ち帰ったのか、アメリカが発生源であるかは不明である。
しかし、アメリカではそれ以前からインフルエンザに似た症例が報告されていた。そのため、多くの研究者はアメリカからヨーロッパに伝わったと考えている。
インフレと革命
インフレ
スペインは、第一次世界大戦に参戦しなかった。そのため、戦争の直接的被害はまったくなかった。
第一次世界大戦で多くの工場で生産量が減少。スペイン製品は飛ぶように売れ、好景気に沸いた。
一方で、好景気でも賃金の上昇はなかった。これにより、都市労働者は物価高で生活苦に陥った。
労働運動の激化
物価高(インフレ)による都市労働者の生活苦によって、労働者政党は力をつけた。17年3月にロシア革命が始まると、スペインでも共和政を求めて全国規模のストライキが起こった。
軍事独裁政権へ
ストライキによる混乱は、18年から20年まで続いた。その間にインフルエンザ(スペイン風邪)の流行。バスク地方やカタルーニャ地方の独立運動。モロッコの独立運動が重なり、スペイン政府は混乱した。
これを収束させたのが、23年9月の軍事クーデターであった。
第1次世界大戦
第1次世界大戦の構造
世界大戦には、2つの共通点がある。1つ目はヨーロッパを舞台にしたイギリスとドイツの戦争である。2つ目は、途中からアメリカが参戦することである。
第一次世界大戦では、イギリス陣営でには、三国協商のフランスとロシア、英仏同盟を結んだ日本が参加した。さらに、三国同盟のイタリアはドイツを裏切りイギリス陣営で参戦した。
一方で、ドイツ陣営は、三国同盟のオーストリアが参戦した。のちに、オスマン帝国(トルコ)も参戦した。
17年4月、アメリカがイギリス陣営で参戦。10月、ロシア革命でイギリス陣営のロシアが戦線離脱した。
中立の立場を取るスペイン
スペインは、第一次世界大戦では中立の立場を取った。その理由は、政治が混乱し戦争する余力がなかったからである。
ポルトガルの第一共和政
混乱するポルトガル
20年頃のポルトガルは、混乱していた。スペイン風邪と戦争インフレの影響である。政治も短命の内閣が続いていた。
軍事独裁政権
ポルトガルは、16年にイギリス陣営で参戦した。翌17年イギリス派が
イギリス派 vs ドイツ派
この政党間に対して、国民は共和政へ失望。軍事独裁政権へとつながる。
第一共和政
1910年革命
サバテロ政権は、スペイン軍をイラク戦争から撤退させた。
第2次モロッコ事件
11年、フランスがモロッコを保護国にしようとすると、ドイツが反発。軍艦をモロッコへ派遣した。
英仏協商を結ぶイギリスは、ドイツに圧力をかけて撤兵。戦争に至らなかった。
フランスは、モロッコ王国とフェス条約を締結。モロッコはフランスの保護国となった。このとき、モロッコ北部のリーフ地方をスペインに割譲。イギリスに配慮して、ジブラルタ海峡に面したタンジェを国際管理都市とした。