1960年代の中国 毛沢東氏の復権と中ソ対立

前回の復習 1970年代の中国

 1970年代の中国。外交では、日本やアメリカと国交を結んだ。政治では、毛沢東国家主席や周恩来首相が死亡。政治の混乱を経て、鄧小平政権が成立する。

1960年代の国際情勢

 日本は、高度成長期。64年に東京オリンピックが開催された。

 この60年代は、キューバ危機で始まった。米ソは軍縮へむかった。65年にベトナム戦争が勃発。これにより、アメリカは融和路線へ向かっていく。

政治)毛沢東氏と文化大革命

走資派 vs 革命派

 中華人民共和国は、2つの派閥が存在した。共産主義をすすめていく革命派と市場経済を導入しようとする走資派である。

第二次毛沢東政権

 66年の文化大革命で、毛沢東氏は復権した。68年、軍によって秩序を回復。この時の軍のトップが林彪氏(りんびょう)出会った。

 69年4月の全国人民代表会議で、毛沢東氏は林彪氏を後継者に指名する。しかし、71年林彪氏は党内の闘争で失脚。ソ連への亡命するときに事故死した。その後に台頭したのが革命四人組である。

プロレタリア文化大革命

 66年8月、毛沢東氏はプロレタリア文化大革命が起こす。12月、劉少奇国家主席が失脚した。

 プロレタリア文化大革命とは、北京の学生たちが組織した紅衛兵(こうえいへい)によって引き起こされた。これは瞬く間に全国に広がった。

 これにより、国家主席の劉少奇氏や高級官僚であった鄧小平氏は失脚。劉少奇氏はそのままなくなった。このとき、多くの富裕層が批判を受けて死に至った。

走資派の劉少奇政権

 59年3月、毛沢東氏は、国家主席の地位を劉少奇に譲った。それでも、毛沢東氏は実権を握った。中国経済が荒廃すると、経済再建が国家課題になった。劉少奇国家主席が託したのが、鄧小平氏であった。

 鄧小平氏は、中国経済を再建した。

毛沢東氏の大躍進政策の失敗

 毛沢東国家主席は、58年、大躍進運動を始めた。簡便な方法による製鉄や、過度な集中栽培を実施。これにより、農業の生産性は著しく低下。

 59年、大飢饉が発生。毛沢東氏は、国家主席の地位を劉少奇氏に譲った。

外交)中ソ対立

アメリカへ接近

 69年、ソ連との武力衝突が起こる。これは、中華人民共和国の存続の危機である。そこで、ソ連に抵抗できる新たな味方を必要とした。これがアメリカである。

 当時の中国は、アメリカとベトナム戦争で対立中であった。しかし、68年の大統領選挙で反戦を訴えた共和党のニクソン大統領が勝利。

中ソ国境紛争

 69年3月、珍宝島をめぐりついにソ連と武力衝突した。8月には、新疆ウイグル自治区でも武力衝突が起こった。

ベトナム戦争が勃発

 65年1月、ベトナム戦争が勃発。7月、劉少奇国家主席は、北ベトナムと経済技術援助協定を締結。

 67年10月、インドネシアで親中のスハルト大統領が失脚。8月には、ASEANを発足させた。10月、中国は、インドネシアと事実上国交を断絶した。

核兵器保有とフランスと国交正常化

 62年10月のキューバ危機をきっかけに、核保有国のアメリカ、ソ連とイギリスは核軍縮へと舵を切る。これで成立したのが、63年8月の部分的核実験禁止条約である。これに反発した2つの大国がある。60年代に核保有国になったフランスと中国である。

 64年1月、フランスのド=ゴール政権と国交正常化。

 64年10月、核実験に成功。

 68年7月、アメリカ、イギリスとソ連は、フランスと中国を警戒し、核拡散防止条約(NPT)を締結した。

中ソ論争激化

 中ソ対立の始まりは、フルシチョフ書記長のスターリン批判から始まる。53年にスターリンが死去。フルシチョフ氏は書記長に就任。56年にスターリン批判を実施。58年に首相に就任。アメリカへの接近を始める。毛沢東氏は、これを快く思わなかった。

 59年9月、フルシチョフ書記長と毛沢東氏が会談するも決裂。翌60年7月、フルシチョフ書記長は、ソ連の技術者を中国から引き揚げさせた。これにより、中国経済は低迷した。

 

インドと国境紛争

 インドと中国は、50年代、第3世界の雄として良好な関係を築いていた。

 しかし、59年3月、ここに亀裂が生じた。チベット動乱である。チベットで動乱が発生。ダライ=ラマは、インドへ亡命した。

 62年10月、カシミア地方を巡り、インドと武力衝突。(中印国境紛争)

第三世界のリーダーとして

 50年代、中国は、インドとともに第3世界のリーダーとしての地位をあった。61年、ユーゴスラビアのベオグラードで、第1回非同盟諸国首脳会談が開かれた。

 東南アジアにも、大きな景況を与えた。61年4月、インドネシアのスカルト政権と中国インドネシア友好協力相互援助条約を締結した。