1970年代の中国 毛沢東の死と日米と国交正常化

前回の復習 1980年代前半の中国

 1980年代前半の中国は、鄧小平氏の時代である。鄧小平氏が市場経済を導入した。これにより、経済が成長した。一方で、格差が拡大。これが(第二次)天安門事件につながる。

 今回は、市場経済並行する要因を外交と政治の2つの側面で見ていく。外交面では、資金の出し手である日本とアメリカとの国交正常化過程を見てきます。政治面では、毛沢東体制から鄧小平体制へどのように移行したかを見ていきます。

1970年代の国際情勢

 1970年代の日本は、田中首相の時代。政治では自民党内の派閥争いが展開されていた。経済では高度成長期が終わり低成長期に入る。

 70年代の始まりも、衝撃から始まった。2つのニクソン=ショックである。ドル=金本位制の終了と訪中である。また、オイルショックの影響で景気は低迷した。

外交)アメリカ、日本に接近

日中平和友好条約

 78年8月、日中平和友好条約が締結された。72年8月に日中共同声明(日中国交正常化)が発表されたが、交渉は難航した。時の政権は、日本は福田政権、中国は華国鋒政権である。

 問題点は3つあった。1つ目は、台湾の植民地支配に関する補償問題である。中華人民共和国政府は、台湾を中国の一部と認識している。そのため、台湾の戦後補償を求めた。一方、日本は、台湾への戦後補償は台湾政府(中華民国政府)として解決済みとした。

 2つ目は尖閣諸島の領有権問題がある。この件には後述する。

 3つ目は、自衛隊の問題である。日中平和友好条約の第2条で、反覇権条項があった。両国がアジア太平洋の地域を完全に支配することを禁止した。これは、第2次世界大戦時は日本がアジア太平洋地域を支配しようとしたことが、これが始まりである。自衛隊がこれに当たるかが問題になった。

 反覇権条項は、別な所へ飛び火した。ソ連である。当時の中国は、中ソ対立があった。ソ連がアジアで覇権を広げるのも禁止することを意味していた。そのため、第四条で第三国条項をプラスし、ソ連などの第三国と中国と日本は中立を保つことができた。

 翌79年1月、米中国交正常化が実施。華国鋒政権とアメリカのカーター民主党政権の間で結ばれた。この条約によって、80年にアメリカと台湾政府の間で結ばれていた米華相互防衛条約は解消された。

沖縄返還と尖閣諸島問題

 72年5月、沖縄が日本に返還された。このとき、問題が生じたのが尖閣諸島問題である。この問題は2023年現在も解決されていない。

 尖閣諸島は、明治政府は1885年に沖縄県に編入したことを宣言。このとき、異議を唱える国はなかった。その後、1895年に日清戦争に勝利。台湾を併合する。1945年、日本が第二次世界大戦に敗戦。台湾を中華民国に返還。沖縄はアメリカの統治下になった。このとき、尖閣諸島がどちらに所属するかが問題にならなかった。

 尖閣諸島の問題が顕在化した要因は、68年の国際連合による東シナ海の海洋調査である。このとき、尖閣諸島周辺に大量の石油が埋蔵されていることが判明した。

 72年、沖縄が日本に返還されると、中国政府や台湾政府が尖閣諸島の領有権を主張し始めた。

ニクソンショック

 71年7月、アメリカのキッシンジャー外相が秘密裏に訪中。翌8月、ドル=ショック(金とドルの交換の停止発表)。72年2月、アメリカのニクソン共和党大統領が訪中。これは、日本や台湾に事前連絡がなかった。

 ニクソン大統領は、同年11月の大統領選挙に勝利。73年1月にベトナム和平協定を締結。ベトナムからの撤兵を実現した。しかし、翌74年のウォーターゲート事件で辞任に追い込まれた。

キッシンジャー秘密外交と国連代表権

 71年1月、アメリカのニクソン共和党大統領は、秘密裏にキッシンジャー大統領補佐官を北京に派遣した。翌72年のニクソン訪中が決定した。

 その年の10月、国際連合は、中国の代表権を台湾の国民党政権から北京の共産党政権に変更した。これは、アルバニア決議と呼ばれる。 

主要国が中華人民共和国を承認した歴史

 中国は、45年8月に日中戦争で日本に勝利。その後、国民党と共産党の国共内戦が勃発した。49年11月、共産党は北京で中華人民共和国を建国を宣言した。しかし、国民党は台湾に亡命し、中華民国を存続させていた。日本などの主要国は、台湾の国民党政権を正式な国家とし、中華人民共和国を承認しなかった。

 49年に、中華人民共和国を承認をしたのは、ソ連などの東側諸国が承認した。中立国の主要国では、インドが承認した。

 翌50年1月、イギリスのアトリー労働党政権が承認。53年、朝鮮戦争で大国アメリカと引き分けると、アジア・アフリカの独立国は中華人民共和国を相互に国家承認した。

 64年、フランスのド=ゴール大統領が国家承認。

 71年、アメリカのニクソン共和党大統領が国家承認すると、国際連合で代表権を獲得した。

中国の思惑 中ソ対立

 70年代、中国は日本やアメリカとの国交正常化を実現した。その背景には60年代の中ソ対立がある。

 中ソ対立は、53年のスターリン批判で始まった。68年にソ連軍がチェコスロバキアに武力弾圧を行うプラハの春が起こると軍事的に緊張関係が発生した。69年にはソ連軍と国境紛争が起こる。70年代の中華人民共和国はソ連の軍事的脅威にさらされていた。そのため、ソ連と対抗できるアメリカの支援が必要であった。

アメリカの思惑 ベトナム戦争の泥沼化

 一方、アメリカの60年代は、ベトナム戦争に苦しんでいた。68年には、反戦運動が激化。戦争の継続は困難であった。この年の11月には、ベトナム撤兵を公約にしたニクソン共和党大統領が勝利した。

 ニクソン大統領は、ベトナム戦争停戦のために、大戦国の中華人民共和国との国交正常化が重要な課題であった。

政治)鄧小平氏と五四天安門事件

走資派 vs 実権派

 前半では、米中の接近を見ていきました。ここでは、日本とアメリカの国交正常化の裏側であった中国の政治を見ていきます。

 中華人民共和国は、経済政策によって、2つの派閥の対立があった。1つは、市場経済の導入によって経済成長を図ろうとする「走資派」(「実権派」)がある。もう一つは、社会主義経済を維持しようとする「革命推進派」がある。80年代に政権を担う鄧小平氏は、当然「走資派」の中心人物である。

鄧小平政権へ

 鄧小平氏は、第1次天安門事件(五四天安門事件)で失脚していた。77年7月、華国鋒政権は、鄧小平氏を復権。

 78年1月、鄧小平氏は、改革開放路線を打ち出す。78年8月、日中平和友好条約を締結。日本から多額のODA(経済援助)を獲得。これにより経済が好転。

 78年12月、鄧小平氏は「四つ現代化」政策を打ち出す。79年1月、アメリカと国交正常化。その裏で、短期間のベトナム侵攻のの許可を得たとされている。翌2月、ベトナムへ侵攻(中越戦争)。これは失敗に終わる。

 鄧小平氏は、中越戦争の敗北を利用して、華国鋒氏の失脚を目論む。80年8月、華国鋒氏を首相から解任。後任に趙紫陽氏がついた。翌81年6月に華国鋒氏は完全に失脚。党のトップに胡耀邦氏が就任。鄧小平氏は軍のトップに就いた。

 これにより、80年代の鄧小平体制が完成する。

毛沢東の崩御と華国鋒政権

 鄧小平を復権させたのは、華国鋒首相である。当時の中国は、文化大革命の経済政策で、国民の生活は苦しい状態にあった。76年9月に毛沢東国家主席が崩御。華国鋒首相は、事実上TOPにたった。

 77年7月、文化大革命の終了を宣言。革命推進派(「四人組」)を逮捕。鄧小平氏を復権させ、景気回復に向けて動きだした。

周恩来首相の死と第1次天安門事件

 76年、2人の重要人物が亡くなった。毛沢東国家首席と周恩来首相である。

 1月、周恩来首相が死去。後任についたの華国鋒首相であった。周恩来首相の死によって、「四人組」と呼ばれる革命推進派の発言力が高まった。

 4月、天安門で周恩来首相の追悼集会が行われる。その一部が「四人組」政権批判を始めた。政府は、これを武力鎮圧した。このとき、鄧小平氏を首謀者として失脚させた。

 9月、毛沢東国家主席が死亡。革命推進派は後ろ盾を失った。

革命推進派の「四人組」

 74年1月、革命推進派の「四人組」が孔子批判を開始。周恩来首相や鄧小平氏らの「走資派」らを痛烈に批判。76年1月に周恩来首相がなくなると、「四人組」政権が成立した。

 この「四人組」の中心人物は、毛沢東夫人の江青(こうせい)女史であった。

周恩来政権

 71年1月、周恩来首相は、アメリカのキッシンジャー大統領補佐官の訪中を受ける。

 71年9月、革命推進派の林彪氏が事故死。(クーデター未遂で暗殺された説もある)。周恩来氏の発言力が高まった。

 周恩来氏は、鄧小平氏を復権。日本やアメリカとの国交正常化交渉を進めていった。

毛沢東の政治

 66年の文化大革命で毛沢東を中心とした政治体制が構築されたいた。その後継者であったのが、林彪氏であった。しかし、71年9月林彪氏が事故死。中国政治は混乱した。