18世紀前半の中国 清王朝 雍正帝と地丁銀制

前回の復習 18世紀後半の中国

 18世紀は、清王朝の時代である。18世紀後半は、乾隆帝の時代。この時期に、最大版図を獲得する。18世紀末に乾隆帝が崩御。嘉慶帝が即位。ここから、清王朝の衰退の歴史が始まる。その始まりが、四川省の白蓮教徒の乱である。

18世紀前半の国際情勢

 日本は江戸時代。米将軍徳川吉宗が、享保の改革を行っていた頃である。

 ヨーロッパでは、太陽王ルイ14世が崩御。絶対王政の問題点が表面化しつつある時代である。また、イギリスでは、産業革命が始まった。

清王朝、三大皇帝

康煕帝

 康煕帝は、17世紀なかばに即位。中国全土を統一した。

 17世紀初頭は、絶対王政の全盛期である。主要な君主には、以下のような人がいる。

  • 日本(江戸幕府) 徳川綱吉(犬将軍)
  • インド(ムガル帝国) アウラングゼーブ帝
  • ロシア帝国 ピョートル大帝
  • フランス(ブルボン朝) ルイ14世(太陽王)

雍正帝

 22年、雍正帝が即位。軍機処を設置。キリスト教の布教を禁止した。さらに、税制を変更し、地丁銀制を導入。文字の獄を実施した。

乾隆帝

 35年、乾隆帝が即位。58年、ジュンガルを滅ぼし、併合。最大版図になった。

外交

キリスト教 典礼問題

04年、典礼問題が起こる。

 イエズス会は、中国古来の儒教的儀礼を容認していた。しかし、それ以外の修道会(キリスト教の布教組織)は、これを否定した。これらの修道会はローマ教皇にこのことを訴えた。ローマ教皇は、イエズス会の布教方法を否定した。これが典礼問題である。

 康煕帝は、キリスト教の布教を容認。北京場内に教会(天主堂)を建設。宣教師を政府役人として登用した。

 清王朝の康煕帝は、典礼問題を受けて、イエズス会以外のキリスト教の布教を禁止した。

 06年、イタリア人宣教師カスティリオーネが清王朝に登用される。イエズス会に所属。宮廷画家とし重用され、円明園の西洋式庭園の設計にもあたった。康煕帝、雍正帝、乾隆帝と三大皇帝に仕えた

24年、キリスト教の布教を禁止

 22年、乾隆帝が即位。キリスト教の民間への布教は全面禁止された。ただ、宣教師の在留は認めたれたが、北京とマカオに限定された。ただ、日本のキリスト教禁令とは異なり、緩やかなものであった。

乾隆帝のキリスト教政策

 35年、乾隆帝が即位。宣教師たちは、キリスト教の布教の再開を要望した。しかし、乾隆帝はそれを認めなかった。

イギリス東インド会社

 イングランドは、17世紀初頭のエリザベス女王治世に、東インド会社を設立。東アジア交易に参入とした。17世紀前半のアンボイナ事件で、東アジア・東南アジアから撤退した。しかし。16世紀後半の名誉革命で、オランダと同君連合になり、再び、東アジア交易に参加した。

 康煕帝は、16世紀後半に鄭氏台湾を滅ぼすと、海禁政策を緩めた。99年、康煕帝は、イングランドに広州での貿易を許す。

 02年、広州・アモンで行商制度を導入。

 15年、イギリス東インド会社、広東に商館設置。

 20年、康煕帝は、広州で公行制度を導入。公行(コホン)制度とは、外国人との交易を大蔵省(現代の日本で言う財務省、税金の徴収を担当)が認可した十三の商人に限定した。彼らは、公行(コホン)と呼ばれ、貿易を独占する代わりに、関税を清王朝に収めた。

 57年、乾隆帝は、広州に制限。海禁政策は完成した。

ジュンガルとロシア

 ジュンガルは、17世紀に台頭したモンゴル系の部族である。土木の変をおこしたオイラト部族の末裔である。17世紀末のモンゴルは、2つに分裂していた。内モンゴルは、清王朝の支配下に入ったが、外モンゴルはジュンガルが支配していた。

 18世紀に入ると、ジュンガルは、チベットのダライ=ラマと結びついて、内モンゴル奪還に動き出した。しかし、失敗。外モンゴルを征服した。

 17年、モンゴルを追われたジュンガルはチベットに侵入。清王朝は、チベットに軍隊を送った。20年、清王朝がチベットのラサを攻略。チベットの宗主権を確立する。

 ジュンガルは、拠点をチベットから中央アジアのタリム盆地に拠点を移した。この地で、ウイグル人が即位した。 

 雍正帝が即位すると、タリム盆地へ軍隊を送った。また、中央アジアに進出していたとロシア帝国が、ジュンガルと結びつかないように、27年、ロシアとキャフタ条約を締結。中央アジアにおける清王朝とロシア帝国の国境が決定する。

軍機処の設置

 雍正帝時代の清王朝の最大のミッションは、ジュンガルとの戦争である。

 27年、清王朝はロシア帝国とキャフタ条約を締結。ジュンガル勢力がロシア帝国と結ぶことを防いだ。

 29年、軍機処を設置した。これは、ジュンガル平定のための大本営(軍事作戦を決定する最高意思決定機関)である。当初は軍事用臨時の組織であった。

 ジュンガル平定後も、軍機処は存続。軍事以外にも国政にも関与するようになった。それまで、国政の最高意思決定機関は、明代(15世紀初頭)に成立した内閣大学士であった。軍機処が内閣大学士の代わりを担うようになった。この軍機処は、清王朝滅亡まで存続した。

経済

地丁銀制

 17年、広東で地丁銀制が導入。雍正帝の時代に全国に広まった。

 地丁銀制とは、人頭税(所得や資産に関係なく、人数でかける税金)を廃止し、地銀(土地税、現在の日本で言う固定資産税)に1本化する仕組みである。これにより、土地を持たない小作人は、納税義務がなくなり、人口が急増した。

文化

円明園

 09年、円明園造営が始まる。円明園は、康熙帝が皇太子(後の雍正帝のために建設された離宮である。イタリア人宣教師が指導した西洋式庭園を持つ。

 乾隆帝の時代に、フランスのヴェルサイユ宮殿を模したバロック式庭園を建設。

 1860年のアロー戦争時に消失した。

文字の獄

 康熙帝は、16世紀に清王朝を統一。文書の統制を開始した。清王朝や皇帝、満州人を批判する文書を禁止した。これが文字の獄である。

 雍正帝も、文字の獄が続いた。科挙試験で皇帝を批判するような文字を使用したことで、本人とその子どもが死罪。また、清王朝を批判した朱子学者については、本人、子ども、弟子をすべて死罪にし、さらに、その一族を奴隷身分に落とした。

 乾隆帝は、文字の獄は存続。その一環として作成されたのが「四庫全書」である。

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