前回の復習 14世紀の日本
14世紀は、鎌倉時代から室町幕府への移行期。鎌倉幕府が滅亡。後醍醐天皇の建武の新政を経て、南北朝の戦乱期に入っていく。南北朝の成立時に、足利尊氏が室町幕府を成立させた。14世紀末、足利義満によって南北朝の合一が行われる。
13世紀の国際情勢
13世紀は、モンゴルの世紀である。チンギス=ハンが活躍した時代である。
中国は、モンゴルの支配下に入り、モンゴル人の王朝である元王朝が成立した。
ヨーロッパでは、中東への十字軍遠征が展開されていた。
流れ 鎌倉幕府
前史)鎌倉幕府の成立
鎌倉幕府の成立は、11世紀末である。その成立については、諸説ある。それは、何を持って鎌倉幕府の成立とするかが不明確であるからである。
鎌倉幕府の初期は、鎌倉の源氏政権が朝廷(京都)から様々な権限を獲得していく時代である。
85年3月、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡。
85年10月、後白河法皇が源義経に源頼朝の追討の院宣をだす。
翌11月、源頼朝は、院宣撤回のために、義父の北条時政を京都に派遣。後白河法皇は、源頼朝に源義経追討の院宣を発布。この時、全国に守護地頭の設置と兵糧米の徴収権を朝廷に認めさせた。現在は、守護地頭の設置をもって鎌倉幕府の成立としている。
92年4月、後白河法皇が崩御。源頼朝が征夷大将軍になる。かつては、この年を鎌倉幕府成立の年としていた。一方で、京都では、後白河法皇の孫である後鳥羽上皇が院政を継承する。
権力闘争 と「鎌倉殿の13人」
99年、源頼朝が死去。息子の頼家が将軍に就任した。ここから有力御家人の間で権力闘争が展開された。この権力闘争に勝利したのが、第2代執権の北条義時であった。
源頼家が暴走したたため、御家人たちは将軍の権限を制限。有力御家人13名の会議体が設置された。事実上の幕府の最高意思決定機関となった。
なお、御家人とは、将軍と主従関係を結んだ武士を指す。
ここから、有力御家人の権力闘争が行われる。これに勝利したのが、頼朝の義弟である北条義時である。そのような過程で執権が成立した。
最初に台頭したのが、比企氏である。比企氏は、頼家の後見役として台頭した。
次に台頭したのが、源頼朝の義父である北条時政である。03年、比企氏を滅亡。2代将軍頼家を幽閉した。三代将軍に源実朝を即位。北条時政は、その後見役についた。05年、政所のトップ(政所別当)に就いた。
13年、侍所別当(侍所のトップ)の和田義盛と和田合戦で滅亡。北条時政は、侍所別当を兼務した。この政所別当と侍所別当の役職を統合して、執権と呼ぶようになった。
その後、北条時政の子で北条政子と北条義時が執権北条時政を幽閉。北条義時が執権になった。
承久の乱と御成敗式目
義時と承久の乱
19年、三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺。源氏将軍の家系が断絶した。皇室から将軍を呼ぼうとした。しかし、将軍暗殺事件を受けて、将軍を送ることを見送った。
21年、承久の乱
一方、後鳥羽上皇が北条義時の追討の院宣を出し、全国の武士に鎌倉攻めを命令した。この危機を救ったのが北条政子である。北条政子は、坂東武者(鎌倉の武士)に名演説を実施。坂東武者をまとめ上げ、鎌倉勢が勝利した。
北条義時は、朝廷と西国武士を監視するために、新たな機関を京都に設置した。六波羅探題である。旧平清盛邸に設置した。初代長官には、義時の息子である北条泰時を任命した。
24年、北条義時が死去。北条政子は、京都から北条泰時を呼び戻し、三代目執権に任命した。翌25年、北条政子が死去。鎌倉幕府成立時の有力者はいなくなった。
泰時と御成敗式目
北条泰時は、幕府を安定させるために組織を強化した。叔父の北条時房を連署(れんしょ・執権の補佐/副執権)に任命、11人の有力御家人を評定衆に任命。13人の合議制を復活させた。
26年、摂関家(藤原氏)の1つである九条家から将軍を迎える。(摂家将軍)。これにより、
32年、御成敗式目を制定。
13人の合議制で権力闘争がおきた理由は、自分に有利に裁判を行おうとしたからである。それを防ぐために、裁判の基準を設けた。これが、御成敗式目である。源頼朝時代の判例(先例)をベースに、北条泰時が京都で学んだ律令の知識に基づいて作成された。
時頼と北条家の独裁
42年、北条泰時が死去。北条経時が執権に就任。鎌倉幕府の中心的人物であった北条泰時が死去。有力御家人の発言力が高まった。有力御家人が近づいたのは、成人した将軍(鎌倉殿)である九条(藤原)頼経である。
44年、新しい将軍九条頼嗣を将軍に就け、前将軍頼経を京都へ帰還させた。
46年、北条時頼が将軍に就任。
47年、宝治合戦で有力御家人である三浦氏が滅亡。北条家の専制が始まる。北条家の独裁体制を作る。
49年、評定衆の下に、引付衆を設置した。裁判は、引付衆が判決案を作成し、評定衆が承認した。これにより、評定衆は形式化した。
52年、皇族将軍を設置。九条家を京都へ帰還させた。
蒙古襲来
60年、フビライが4代目ハンに就任。同じ年、日本では日蓮が「立正安国論」を著し、元寇を予測する。
フビライ=ハンは、高麗(朝鮮)を通じて、通商要求を行った。
68年、北条時宗が執権に就任。時宗は、この通商要求に回答をしなかった。宋王朝との関係から、交戦中の元王朝と通商要求に応じることはできなかった。
70年、高麗(朝鮮)で反乱。73年にようやく鎮圧される。
鎮圧の翌年である74年、文永の役。フビライ=ハンは、高麗(朝鮮)軍を通じて日本へ侵攻。1日で博多を占領。しかし、翌日にはてっぺいした。これは、ただの脅しであった。
時宗は、北九州の防衛のため、異国警固番役を設置。博多に防塁を建設した。
一方、フビライ・ハンは、南宋を滅亡させた。
81年、弘安の役。朝鮮半島からは、元王朝軍と高麗王朝軍が、中国大陸から宋王朝軍がの日本へ進行した。しかし、防塁の影響で博多に拠点をおけず、船に戻った。その後、暴風雨で全滅した。
その後、フビライ=ハンがなくなったため、蒙古襲来が終わった。
鎌倉幕府は、蒙古襲来時に非御家人を動員する権利を獲得。さらに、福岡(筑前国)に鎮西探題を設置した。
鎌倉幕府の衰退と徳政令
蒙古襲来で、北条時宗の権限が強化された。これにより、北条家の家来の発言力が高まった。有力な北条家の家来は、御内人(みうちびと)と呼ばれ、その筆頭は内管領(うちかんれい)と呼ばれた。これは、幕府の役職ではない。
85年、霜月騒動。御内人と有力御家人の安達家が対立。安達家が滅亡した。
執権と御内人による独裁政治が行われるようになった。これが、得宗専制政治である。
92年、徳政令。
徳政令とは、借金で失った土地の返還命令である。
分割相続で、武士の収入は減少。貨幣経済の浸透で借金がしやすくなった。そのため、利息で更に生活が困窮した。現在のリボ払い問題の鎌倉時代版のようなものである。
そこへ蒙古襲来の臨時の戦費が発生した。当時軍事費は自己負担である。ただし、恩賞で戦費が回収された。ただ、蒙古襲来は新たな土地の獲得はできなかったため、恩賞が僅かであった。
このため、鎌倉幕府は、永仁の徳政令を出した。金貸しは、土地を無償で武士に返還した。しかし、その後、貸し渋りが発生。武士である御家人の生活は更に困窮した。これが鎌倉幕府滅亡につながる。
政治 鎌倉幕府
御恩と奉公
御家人とは、源頼朝(鎌倉殿)と直接主従関係を結んだものをいう。有力農民や土着した軍人貴族などの開発領主が御家人になった。
将軍(鎌倉殿)と御家人の関係は、御恩と奉公で表現される。
御恩は、将軍が御家人に対して土地の所有権を保証することである。将軍が土地の所有権を保証できる権利が地頭の設置権である。御恩は、2つに分けられる。本領安堵と新恩給与である。
本領安堵とは、先祖伝来の土地の所有権を将軍が保証することである。現代で言えば、給与の保証である。平安時代は、荘園整理令で度々土地の没収が行われた。鎌倉時代以降は、それがなくなるのである。
新恩給与は、将軍が没収した土地などを再配分することである。現代で言う昇給である。1185年、源頼朝は、朝廷から平氏に寄進された土地(平家没官領)をもらった。これが、最初の新恩給与である。蒙古襲来時は、没収した土地がなかったため、新恩給与ができなかった。これが倒幕運動につながった。南北朝では、足利尊氏が後醍醐天皇を無視して新恩給与を実施したことで、南北朝時代へ向かっていった。
奉公とは、御家人が御恩の見返りに将軍のために働くことである。主な奉公は、軍役である。承久の乱や蒙古襲来で働くことがこれに当たる。このときの戦費は自己負担である。また、平時では、京都の警護(京都大番役)や鎌倉の警護(鎌倉番役)をおこなった。
鎌倉幕府(中央)
将軍
13世紀前半、承久の乱で幕府と朝廷の権威は逆転した。
13世紀後半、天皇家で後継者争いが発生。幕府が仲介に当たり、皇室財産を分割し、天皇は、鎌倉幕府が選択するようになった。
これにより、皇室は、大覚寺統と持明院統に分裂した。
幕府の役職
将軍の下には、3つの組織が設置された。侍所、政所、問注所である。
侍所は、軍事・警察・御家人の統制を司った。奉公にかかわる軍事と警護の人事を取り扱った。トップは、別当とよばれ、坂東武者の和田義盛が担当した。
政所は、一般政務と幕府の財政を取り扱った。トップは、別当と呼ばれ、京都出身の大江広元が担当した。
問注所は、裁判の実務を担当した。実際の裁判は、鎌倉殿である源頼朝が判決を出した。実際には裁判所の事務官的役割である。
当時の裁判の大部分は、土地のトラブルであった。御恩である本領安堵を実現するためには、この裁判の機能は重要であった。
裁判
幕府の大きな役割は、土地トラブルの解決である。
この土地トラブルの解決について、事務的なところは問注所が実施した。一方で、
最初は、鎌倉殿である源頼朝が独断で判断した。
源頼朝がなくなると、有力御家人13名による合議で決定されるようになる。
北条泰時の時代になると、13名の合議制は、評定と呼ばれるようになる。また、裁判の判断基準にある「御成敗式目」が制定される。
北条頼時の時代になると、有力御家人の発言力を低下させるため、評定衆の下に引付衆を設置。引付衆が判決案を作成。評定は承認するだけの機関になった。
執権
執権はなぜ誕生したのであろうか。
比企氏が滅亡すると、北条時政が政所別当に就任した。
その後、侍所別当である和田義盛が和田合戦で敗北。侍所別当の北条時政が侍所別当を兼任。この兼務職を執権という。
鎌倉幕府(地方)
守護
地方の最初の役職は、守護と地頭である。85年、後白河上皇から義経追討の院宣を受けたときに、守護と地頭の地位を獲得した。
守護は、各国に1人設置。各地域の有力御家人が就任した。
各国のトップには、朝廷から任命される国司がいた。守護の役割は、大犯三箇条と呼ばれる3つに限定された。
- 謀反人(義経など)の逮捕
- 殺害人の逮捕
- 大番催促(各国の御家人に対し京都警護番役など大番を命じる)
初期の守護には、報酬はない。そのため、地元の守護よりも、裁判権を持つ鎌倉の有力御家人のほうを重視した。
地頭
地頭は、公領・荘園ごとに設置。さらに、兵粮米を徴収する権利も与えられた。
地頭は、受領や荘園領主にかわり、現地におもむき、土地の所有者である名主から税金を取り立てた。
六波羅探題
鎮西探題
将軍家
源頼朝はには、2人の子がいた。長男の頼家は、後継者として関東の比企氏を後見役とした。一方、次男の実朝は、京都で文化人として育てられた。
99年、源頼朝が死去。頼家が将軍に就任した。
04年、比企一族がなくなると、北条時政は、頼家を幽閉。京都から源実朝を呼び戻し、三代将軍に就任させた。
19年、源実朝が暗殺。頼朝の家系は断絶した。源頼朝の妻である北条政子が将軍を代行し、将軍後継者を模索した。幕府は、皇族から将軍を迎えようとしたが、後鳥羽上皇はこれを拒否した。
21年、将軍不在の中、承久の乱が起こる。将軍代行であった北条政子の名演説によって、幕府側が勝利した。
26年、摂関家(九条家)から幼少の将軍(摂家将軍)を迎える。
42年、北条泰時がなくなる。これにより、成人した将軍と有力御家人が結びついた。
47年、有力御家人である三浦一族が宝治合戦で滅亡。
52年、摂家将軍を廃位。宮将軍の時代に入る。
北条氏と執権
執権は、幕府成立時には存在しない役職である。しかし、北条時政が権力を掌握する中で成立した役職である。
幕府成立時、将軍直下に侍所・政所と問注所が置かれ、それぞれにトップがいた。
源頼朝がなくなると、幕政は、13名の合議制が整えられた。その中から、それぞれの役職のトップが選ばれた。
その後、有力御家人の権力闘争が行われ、敗北したものが次々排除された。権力闘争に勝利した北条時政は、侍所別当と政所別当を兼務することになった。これが執権の始まりである。
では、北条家はどのような一族であったのであろうか。豊穣は、伊豆の豪族であった。北条時政には、3人の男子と2人の女子がいた。北条時政の娘である北条政子はいずに流刑中の源頼朝と結婚。源頼朝が伊豆で挙兵すると、北条一族は、源氏川で参戦した。
長男は、源平合戦の中で戦死。次男である北条義時は、伊豆の江間の地を与えられて独立。江間義時と名乗る。北条時政は、三男を後継者に指名した。
その後、父である北条時政と北条義時・北条政子が対立。北条義時は、父である執権北条時政を鎌倉から追放。義時が執権になった。その後、分家である義時の家系は得宗家と呼ばれるようにある。
一方、伊豆に追放された本家はその後、名越と名乗るようになる。名越の家系は、得宗家を脅かす存在になった。
承久の乱では、執権北条義時が追討対象になった。
北条義時がなくなると、北条政子の采配で、六波羅探題(京都)の長官で北条泰時の息子である北条泰時が執権に就任した。
北条泰時がなくなると、再び執権の継承問題が発生。本家の名越家は摂家将軍と結びついて、幕府の実権を握ろうとした。しかし、これは失敗。摂家将軍制度をやめ、皇族将軍を向かるようになった。この説き、最後の有力御家人である三浦氏も宝治合戦で滅亡。得宗家の独裁が始まる。
その後、北条得宗家の独裁が始まる。得宗家の家臣である御内人の発言力を持つようになる。御内人の筆頭が
朝廷①(天皇・上皇)
92年、後白河上皇が崩御。後鳥羽院政が始まる。
後白河天皇には、3人の孫がいた。外祖父が平清盛である高倉天皇。後鳥羽上皇と守貞親王である。
84年、平家が滅亡する1年前である。源平合戦が中国四国地方で展開されている頃、京都の後白河法皇は、京都を去った安徳天皇を廃位。孫の後鳥羽上皇が即位した。
後鳥羽上皇は、北面の武士に加えて、西面の武士を設置。軍事力を強化した。
03年、比企一族が滅亡。政所別当の北条時政は、源頼家を幽閉。(その後、死亡)。3代将軍として、京都にいた源実朝が即位した。
19年、源実朝が暗殺。京都に激震が走った。幕府は、後鳥羽上皇に将軍の派遣をお願いしたが、暗殺事件を受けて拒否した。
21年、後鳥羽上皇は、混乱する幕府の情勢をみて、政権奪還に動いた。執権北条義時の追討の院宣を出した。これが承久の乱である。承久の乱は失敗。後鳥羽上皇は、隠岐に流された。さらに、天皇は廃位。後鳥羽上皇の甥(守貞親王の子)の後堀河天皇が即位した。以後、皇位は幕府の意向が反映されるようになった。
42年、後堀河天皇の家系が断絶。同じ年、鎌倉でも北条泰時もなくなっている。幕府は、後鳥羽上皇の孫を後嵯峨天皇として即位させた。
後嵯峨天皇には、3人の男子がいた。宗像親王、後深草天皇と亀山天皇である。
宗像親王は、宮将軍になった。その子は将軍時代に臣籍降下し、源氏として皇族から離脱した。
問題は、後深草天皇と亀山天皇の対立である。後嵯峨上皇(46年に譲位)が72年になくなると、後継問題が発生。この解決は、鎌倉幕府に一任された。
鎌倉幕府が、院の荘園を2つに分けた。後深草天皇には、持明院の荘園を、亀山天皇には、大覚寺の荘園を相続させた。天皇の地位は、交互に担う両統迭立が実施された。これは、鎌倉幕府が滅亡する後醍醐天皇の時代まで続く。
荘園の名から、後深草天皇の家系は、持明院統とよばれ、亀山天皇家系は、大覚寺統と呼ばれた。後醍醐天皇は、亀山天皇の孫である。この2つの家系の対立は、14世紀後半の南北朝の戦乱につながる。
朝廷② 摂関家
摂関家は、中世に入り発言力が大きく低下した。鎌倉時代、藤原北家は、五摂家体制を確立した。
平治の乱で、摂関家の有力者である藤原信西と藤原信頼が死亡。藤原忠通の時代になる。
藤原忠通は、後継者候補が3人いた。四男の基実、五男基房と六男兼実であった。
基実は、時の権力者である平家に接近した。そのため、平家が没落すると失脚した。代わりに台頭したのが基房である。基房は源義仲に接近した。源義仲が源義経に討たれると、基実が復権した。
頼朝追討院宣の問題で、基実の家計が再び失脚。源頼朝が指名したのが兼実である。基房の家系は没落した。その後、親幕府の兼実の家系と反幕府の基実の家系で勢力争いが行われるようになった。前者は九条家と呼ばれ、後者は近衛家と呼ばれた。
13世紀なかば、九条家の分家から一条家と二条家が成立。近衛家の分家から鷹司家が成立。五摂家体制が確立。この体制が江戸時代末期まで続く。
経済 荘園制度と地頭
農村)地頭とは、
武士の収入源は、地頭での手数料であった。
公領(国衙領)の場合、名主が下級農民を使って耕作。その一部を地頭に納付。地頭は、京都の受領(下級貴族)に納付。受領は、知行国主(上級貴族)に納付した。
荘園の場合も、名主が下級農民を使って耕作し、地頭に納付。地頭は、京都の荘園領主に納付した。
平安時代、武士は地頭の地位を確保するために、受領や開発領主にこき使われた。しかし、転換期を迎えた。鎌倉殿が全国の地頭の設置権を獲得。武士は、受領や開発領主を無視して、鎌倉殿に咆哮するようになった。
幕府の収入源
では、幕府の収入源は何だったのであろうか。
1つは、関東知行国である。平安時代後期になると、上皇や有力貴族が国司(受領)を任命する権限を持つようになった。この国司任命権が知行である。
将軍は。関東に知行を持つようになった。
2つ目は、幕府が保有する荘園である。これを関東御領である。源氏は、平治の乱に敗北すると、すべて荘園を失った。その大部分は、平家にわたった。85年に平家が滅亡すると、平家の荘園は朝廷が没収。それが鎌倉殿である源頼朝に与えられた。
文化)鎌倉文化
特徴
素朴で質実な気風が特徴
文化の担い手は、京都の貴族から武士や庶民に広がった。
また、12世紀末の日宋貿易の影響で、宋王朝の影響を受けている。
鎌倉新仏教
鎌倉時代は、新しい仏教が登場した時代である。
武士には、禅の影響を受けた仏教が流行した。
- 道元の曹洞宗
- 栄西の臨済宗
一方、庶民には念仏が流行した。これらの仏教は、仏教の急性力から批判された。
- 法然の浄土宗 → 南無阿弥陀仏
- 親鸞の浄土真宗(一向宗)→ 一向一揆につながる
- 一遍の時宗 → 踊り念仏
13世紀半ばになると、日蓮の日蓮宗が起こる。
武家文化
文学
和歌集では、以下のものがある。
- 後鳥羽上皇の命で、藤原定家が新古今和歌集を編纂。
- 藤原定家は、かるたで有名な小倉百人一首も編纂した。
- 将軍の源実朝の金塊和歌集
- 元武士の西行が諸国を漫遊して作成した和歌集『山家集』
- 西行は、奥州藤原氏の平泉も訪問している
三代随筆のうちの2つがこの時代に作られた。
- 鴨長明『方丈記』 平安末期の災厄を描く
- 兼好法師『徒然草』 14世紀初頭
説話集も多く作られた。『十訓抄』『沙石集』などである。儒教や仏教の観点から書かれた
京都と鎌倉の往来がさかんになり、旅行記も多く書かれた。『海道記』『東関紀行』
軍記物『平家物語』『保元物語』
歴史書『吾妻鏡』(幕府が編纂した歴史書)、『愚管抄』(慈円が作成、慈円は、天台宗(比叡山)のトップで、摂関系の藤原忠通の子である)
幕府は、多くの書物を集めた図書館を建設した。これが金沢文庫である。
彫刻
東大寺南大門金剛力士像
12世紀末に南都焼き討ちで東大寺南大門が消失。再建時に作られたのが金剛力士像である。作者は、運慶と快慶である。