2月11日「建国記念の日」の深層:神話、政治、そして近代日本のアイデンティティ

日本のカレンダーにおいて2月11日は「建国記念の日」として国民の祝日に定められている。この日は、単に「日本という国が誕生した日」という表面的な理解に留まらず、古代の神話、中世の思想、明治の近代化、そして戦後の民主化プロセスが複雑に絡み合った、日本史のダイナミズムを凝縮した記念碑的な日付である。本報告書では、歴史愛好家が知っておくべき雑学としての側面、そして大学入試等で問われる歴史学的知識の両面から、この日付の背後に隠された多層的な真実を解明していく。

名称の謎:「建国記念日」ではない理由と政治的妥協の産物

日本の建国記念の日を論じる際、最初に着目すべきは、その名称に含まれる助詞「の」の存在である。アメリカの「独立記念日(Independence Day)」やフランスの「革命記念日(Bastille Day)」が、歴史的事実に基づいた明確な日付であるのに対し、日本のそれは「建国記念の日」という、どこか含みを持たせた表現になっている

政治的論争と19年間の空白

この「の」の一文字には、戦後の日本が経験した激しい思想対立の歴史が刻まれている。戦前、2月11日は「紀元節」と呼ばれ、四大節(新年・紀元節・天長節・明治節)の一つとして盛大に祝われていた。しかし、1945年の敗戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、紀元節が国家神道や軍国主義と密接に結びついていたと判断し、1948年にこれを廃止した

その後、主権を回復した日本国内では、保守層を中心に「建国を祝う日を復活させるべきだ」という運動が巻き起こる。しかし、歴史学者や野党勢力は「神武天皇の即位は科学的・歴史的な根拠がない神話上の出来事であり、それを『建国記念日』として祝うことは、戦前の天皇中心の国家観への回帰につながる」と強く反対した

この対立は10年以上にわたって国会を空転させ、関連法案は9回も廃案となった 。この出口の見えない議論に決着をつけたのが、「建国記念の日」という折衷案であった。

「の」が意味する法的解釈

最終的に、祝日法には「建国をしのび、国を愛する心を養う」という目的が記された 。ここで「建国記念日」ではなく「建国記念 の 日」とされたのは、「歴史的にこの日に建国されたことが確定しているわけではないが、日本という国ができたという 事実そのもの を記念する日」という意味を持たせるためである

つまり、特定の歴史的日付を科学的に肯定するのではなく、「日本が国として成立したことを象徴的に祝う日」として定義することで、左右の対立を収束させたのである。この政治的妥協の産物としての名称は、1966年(昭和41年)にようやく成立した

項目建国記念の日一般的な記念日
由来神話・伝承に基づく歴史的事実に基づく
性格象徴的・精神的な記念事実の確定的な祝賀
名称のニュアンス「建国されたことを記念する」「建国された日を祝う」
決定の経緯審議会による答申と政令法律による直接指定

古代の計時思想:紀元前660年という設定の論理

「建国記念の日」が2月11日である根拠は、日本最古の正史『日本書紀』の記述にある。そこには、初代・神武天皇が「辛酉(かのとのとり)の年の春正月、庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)」に即位したと記されている 。明治時代、この日付をグレゴリオ暦に換算した結果、紀元前660年2月11日という数字が導き出された

ここで歴史的な疑問が生じる。なぜ、まだ縄文時代であったはずの紀元前7世紀という遥か昔に、日本の建国が設定されたのだろうか。

辛酉革命説と讖緯思想

大学入試でも頻出するこのポイントを解く鍵は、古代中国の思想である「讖緯(しんい)説」にある 。これは、干支の組み合わせによって天命が変わり、社会に巨大な変革が起こると考える思想である。

特に、十干十二支が一周する60年を「一元」とし、その21倍にあたる1,260年(一蔀:ほう)ごとの「辛酉」の年には、王朝の交代(革命)を伴うほどの国家的大変革が起こると信じられていた

歴史の逆算と「聖徳太子の時代」

『日本書紀』の編纂者たちは、日本の歴史に正当性と権威を与えるため、この辛酉革命説を利用して年代を構築したというのが現代の定説である。具体的には、当時の政治的中心であった推古天皇9年(601年)の辛酉を起点としたと考えられている

  • 計算のプロセス:
    • 起点:西暦601年(推古天皇9年・辛酉の年)
    • 逆算:1,260年(一蔀)前へ遡る
    • 結果:601 – 1,260 = 紀元前660年

このように、神武天皇の即位年は、歴史的な実証データに基づいて算出されたものではなく、当時の最新の政治理論(計時思想)を用いて、理想的な建国のタイミングとして設定されたのである 。この事実は、当時の支配層がいかに中国の文明的枠組みを意識し、それに劣らぬ歴史を日本に付与しようとしたかを示す証左と言える。

単位期間意味・役割
一元60年干支の一周期。小規模な変革の年。
一蔀(ほう)1,260年60年 × 21元。国家の存亡に関わる大挙の年。
讖緯(しんい)説未来を予言し、吉凶を占う思想体系。
辛酉(しんゆう)変革が起こるとされる特定の干支の年。

大学入試対策:『記紀』の編纂と六国史の重要性

歴史愛好家だけでなく、受験生にとっても「建国記念の日」の背景は重要である。特に『古事記』と『日本書紀』の成立背景とその差異、および「六国史(りっこくし)」の知識は、日本史Bの頻出項目である。

『古事記』と『日本書紀』の徹底比較

「建国記念の日」の根拠となったのは『日本書紀』であるが、試験では『古事記』との違いがよく問われる。

  1. 『古事記』(712年):
    • 天武天皇の命を受け、稗田阿礼が暗誦していた内容を太安万侶が筆録した。
    • 国内向けに皇統の正当性を伝える性格が強く、神話や伝承、歌謡が豊富に含まれている 。
  2. 『日本書紀』(720年):
    • 舎人親王らが編纂した、日本初の公式な歴史書(正史)である 。
    • 編年体(年代順)で記述され、対外的な(特に中国や朝鮮諸国への)示威を目的として漢文で書かれている 。

受験上のテクニックとして、2月11日という「具体的な日付」が出てくるのは、編年体で整然と記述された『日本書紀』の方である、と覚えておくのが有効である。

六国史の筆頭としての位置づけ

『日本書紀』は、その後に続く「六国史」の第一番目にあたる。以下の順序と名称を把握しておくことは、難関大学入試における必須知識である。

  1. 日本書紀
  2. 続日本紀
  3. 日本後紀
  4. 続日本後紀
  5. 日本文徳天皇実録
  6. 日本三代実録

これらの正史は、平安時代初期にかけて編纂された。いずれも編年体であり、国家が主体となって歴史を記録したものである。『日本書紀』に記された神武天皇の即位日は、これら正史の「起点」として、その後の日本の国家意識を形成する基盤となったのである。

明治政府の苦闘:1月29日から2月11日への変更劇

現在の2月11日が「建国記念の日」として定着するまでには、明治時代初期における滑稽とも言える試行錯誤があった。江戸時代まで一般庶民は2月11日を祝う習慣はなく、明治政府は天皇を中心とした国家の誕生日を新しく創出する必要に迫られたのである。

最初の失敗:旧正月の誘惑

1873年(明治6年)、明治政府は「紀元節」を制定した。当初、神武天皇の即位日を旧暦の1月1日と考え、それを新暦に換算して「1月29日」を祝日とした

しかし、迎えた1月29日、政府の思惑は大きく外れることとなった。当時の庶民にとって、1月29日は「旧正月」の時期と重なっていた。人々は「建国」を祝うのではなく、例年通り「お正月」を祝ってしまったのである。町中には門松が立ち、屠蘇を飲み、伝統的な新年の祝いに興じる国民を見て、政府は危機感を募らせた。「これでは天皇の権威が国民に伝わらず、ただの正月のおまけになってしまう」と考えたのである

再計算と2月11日の確定

政府は、即座に日付の変更を検討した。天文学的、歴史学的な「精緻な計算」を改めて行い(実際には旧正月との重複を避けることが主眼であったが)、神武天皇の即位日を2月11日へと修正した

この日付の変更は、単なる暦の修正ではなく、国民の意識を「伝統的な共同体の時間(旧正月)」から「国家が定めた標準的な時間(紀元節)」へと強制的に移行させようとする、明治政府による近代化政策の一環であった。2月11日という日付は、日本の近代が「神話の再解釈」によって始まったことを示す象徴的な数字なのである。

年月日出来事背景・理由
明治5年11月太陽暦の採用西欧列強との足並みを揃えるため。
明治6年1月29日第1回紀元節旧正月と重なり、国民が勘違いして正月を祝う。
明治6年2月日付の変更天皇の権威を独立させるため2月11日へ。
明治22年2月11日憲法発布紀元節に合わせ、天皇による「欽定」を強調。

皇紀2600年の熱狂:戦時下の「建国」イメージ

昭和初期、特に1940年(昭和15年)は、神武天皇即位から2,600年にあたる記念すべき年として、日本全体が空前の「皇紀2600年」ブームに沸いた。この時期の熱狂を理解することは、現在の「建国記念の日」を巡る戦後の慎重な議論の背景を知る上で不可欠である。

5万5000人の式典と「紀元二千六百年」

1940年11月10日、宮城前広場で挙行された「紀元二千六百年奉祝式典」には、昭和天皇と香淳皇后が臨御され、5万5,000人もの参列者が集まった 。この年のために「紀元二千六百年」という奉祝歌が作られ、ラジオや街角で繰り返し流された。

また、橿原神宮への参拝者は年間を通じて爆発的に増加し、正月三が日だけで125万人、2月11日の紀元節には70万人が訪れたと記録されている 。この「2,600年」という数字は、当時の日本にとって、単なる時間の経過ではなく、万世一系の天皇が統治する世界の冠絶した歴史を証明する絶対的な根拠として機能していた。

兵器の命名規則と「零式」の誕生

この皇紀(こうき)の浸透ぶりを現代に伝える最も有名な遺産が、軍用機の名称である。

戦前・戦中の日本軍では、兵器が制式採用された年の皇紀の下二桁を機体名に採用していた

  • 九七式戦闘機: 皇紀2597年(1937年)採用。
  • 九九式艦上爆撃機: 皇紀2599年(1939年)採用。

そして、皇紀2600年にあたる1940年に採用された戦闘機は、下二桁が「00」となるため、本来「百式」となるところを、特別な記念の年であることから「零式(れいしき)」と名付けられた。これが、世界的に知られる「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」の由来である

興味深いことに、陸軍と海軍の対立はこの命名にも表れていた。海軍が「零式」を採用したのに対し、陸軍は「99の次は100である」という数学的な理屈を優先し、皇紀2600年に採用した機体を「百式司令部偵察機」などと命名した 。こうした雑学は、歴史愛好家同士の会話において、当時の組織間の機微を伝える絶好のネタとなる。

戦後の「空白」と復活への長い道のり

1945年の敗戦は、2月11日の意味を劇的に変えた。GHQは、紀元節が軍国主義の精神的支柱であったとしてこれを廃止したが、その後の復活劇は、日本の戦後民主主義が「伝統」とどのように折り合いをつけてきたかを示すドラマである。

19年間に及ぶ論争の焦点

1948年に紀元節が廃止されてから、1966年に「建国記念の日」が成立するまで、実に19年もの歳月を要した。この間、国会や世論では激しい議論が戦わされた。

  1. 日付の妥当性: 歴史学者たちは「神武天皇の即位は神話であり、実証的な日付ではない」と主張した。これに対し、代案として「サンフランシスコ平和条約発効の日(4月28日)」や「日本国憲法施行の日(5月3日)」を推す声もあった 。
  2. 呼称のニュアンス: 「紀元節」という言葉の響きが持つ戦前の印象を避けつつ、いかにして「建国」を祝うか。「記念日」とするか「記念の日」とするか、この一文字の差に、学問的誠実さと政治的妥協のせめぎ合いがあった 。

審議会による最終決定

最終的に、佐藤栄作内閣のもとで「建国記念日審議会」が設置された 。委員9人のうち、7人の賛成をもって「2月11日」が答申された 。反対した2人の委員は、やはり「歴史的根拠の薄弱さ」を理由としていたが、世論調査では圧倒的に2月11日の支持が高かったことが決定打となった

1966年12月9日、政令第376号「建国記念の日となる日を定める政令」が公布・即日施行され、翌1967年から2月11日は再び日本の祝日として戻ってきたのである

日付案主な理由・背景結果
2月11日日本書紀の記述、旧紀元節としての慣習。採用
4月28日サンフランシスコ平和条約の発効(主権回復)。却下
5月3日日本国憲法の施行日(憲法記念日と重複)。却下
2月15日聖徳太子の命日(聖徳太子を建国の祖とする説)。却下

まとめ:私たちが祝う「建国」とは何か

2月11日「建国記念の日」を巡る歴史を俯瞰すると、そこには「神話」「政治」「科学」という3つの力が常に作用していることがわかる。

紀元前660年という日付は、古代の編纂者が中国の高度な思想を借りて作り上げた「物語」であり、歴史的事実ではない 。しかし、その物語を軸にして、明治政府は近代国家の形を整え、戦時下の人々は一丸となり、そして戦後の人々は民主的な議論を通じて、その伝統を再定義してきた

この祝日は、単に日本ができた日を祝うものではなく、日本という国がその長い歴史の中で、自分たちのルーツをいかに解釈し、維持しようとしてきたかという「意志」を記念する日であると言えるだろう。

明日、誰かに話したくなる雑学として、あるいは大学入試の知識として、この「2月11日」の重層的な意味を思い返していただきたい。名称に入った一文字の「の」が、戦後日本の苦悩と妥協の結晶であることを知るだけでも、カレンダーの赤い日の見え方は変わってくるはずである。

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