2世紀の東南アジア 海のシルクロード

復習 3世紀の東南アジア

 4世紀から5世紀にかけて、東南アジアのインド化が進んだ。その要因は2つある。グプタ朝の成立と魏晋南北朝の戦乱である。

 今回は、漢王朝の滅亡が東南アジアに及ぼした影響を見ていきます。

2世紀の国際情勢

 2世紀(201年〜300年日本は弥生時代。女王卑弥呼(ひみこ)の時代である。

 2世紀は、東西二大帝国の全盛期である。漢王朝は、後漢王朝の全盛期である。一方で、ローマ帝国は、五賢帝時代の全盛期である。

 インドは、クシャーナ朝が衰退。中東のイランでは、パルティアが滅亡してササン朝が成立した。

漢王朝の衰退とベトナム

黄巾の乱

 黄巾の乱は、184年に始まった農民反乱である。カルト宗教であった太平道が中心になった。この戦争により、漢王朝の権威が低下。地方の豪族が独自に政治を行うようになった。日本の応仁の乱のように戦乱の時代へ入っていた。これが魏晋南北朝時代の始まりである。

ベトナム

 漢王朝時代、ベトナムは漢王朝の支配下に入っていた。香港周辺の広州と一緒の地方区分とされ、中央政府から地方長官(刺史)が派遣された。

 2世紀後半に派遣された地方長官は暴君でベトナムの人々に重税を課した。

チャンパーの独立

 漢王朝末期、ベトナムの地方長官は悪徳役人であった。重税を課し、私腹を肥やしていた。2世紀末、民衆はその役人を殺害した。

 次の地方長官は、重税を取り消した。

 これにより、ベトナムの人々は、漢王朝の支配に反感を持つようになった。一方で、漢王朝から派遣された地方長官とベトナム民衆の結びつきが良くなった。

漢王朝とベトナム

漢王朝とベトナム

 2世紀、東南アジアは栄えた。その要因は、ローマ帝国と漢王朝をつなぐ海上交易路(海のシルクロード)である。

 その恩恵を受けたのが、1世紀末に成立したカンボジアの扶南である。港町オケオを中心に大いに栄えた。

ローマからの使者?

海のシルクロード

 東西交流で栄えた港市国家として、南ベトナムのチャンパーがある。

 2世紀は、東西交流が盛ん時代である。草原の道、オアシスの道と海の道である。漢王朝とローマ帝国が直接取引したわけではなく、