3世紀の東南アジア 中国からインドへ

復習 4世紀の東南アジア

 4世紀から5世紀にかけて、東南アジアのインド化が進んだ。その要因は2つある。グプタ朝の成立と魏晋南北朝の戦乱である。

 今回は、漢王朝の滅亡が東南アジアに及ぼした影響を見ていきます。

3世紀の国際情勢

 3世紀(201年〜300年)、日本は弥生時代。女王卑弥呼(ひみこ)の時代である。

 中国では漢王朝が滅亡。ローマ帝国(ヨーロッパ)でも3世紀の危機が発生。これにより、東西の交流が減少した。

 インドは、クシャーナ朝が衰退。中東のイランでは、パルティアが滅亡してササン朝が成立した。

三国志とベトナム

ベトナムの反乱

 2世紀なかば、漢人の移民を中心とした呉王朝からの独立運動が起こる。この独立運動にはベトナムの支配階級も参加した。

 この反乱は失敗に終わる。以後、中国南朝と隋王朝の支配を経て、唐王朝の支配下に入った。

呉王朝の支配

 2世紀末、漢王朝が衰退し、三国志の世界に入っていく。日本の戦国時代のように多くの諸侯が覇権を争う群雄割拠の時代に入っていく。

 漢王朝の支配下にあった北ベトナムも例外ではなかった。当時のベトナムは香港などの広州と一緒に統治され、事実上の独立国になっていた。

 漢王朝が滅亡すると、北ベトナムと広州のトップは三国の一つで孫権が建国した呉王朝に建国した。

 トップがなくなると、呉王朝が直接統治を開始。呉王朝は広州と北ベトナムを分割した。これが現在のベトナムと中国の国境のもとになった。

漢王朝末期のベトナム

 漢王朝末期、ベトナムの地方長官は悪徳役人であった。重税を課し、私腹を肥やしていた。2世紀末、民衆はその役人を殺害した。

 次の地方長官は、重税を取り消した。

 これにより、ベトナムの人々は、漢王朝の支配に反感を持つようになった。一方で、漢王朝から派遣された地方長官とベトナム民衆の結びつきが良くなった。

東西交流と東南アジア

カンボジア)扶南とオケオ遺跡

 2世紀、東南アジアは栄えた。その要因は、ローマ帝国と漢王朝をつなぐ海上交易路(海のシルクロード)である。

 その恩恵を受けたのが、1世紀末に成立したカンボジアの扶南である。港町オケオを中心に大いに栄えた。

南ベトナム)チャンパー

 東西交流で栄えた港市国家として、南ベトナムのチャンパーがある。

 南ベトナムは、2世紀まで北ベトナムと同様に漢王朝の支配下にあった。チャンバーの地域は東西貿易に拠点であったため、ひたベトナムよりも豊かであった。

 2世紀末に、漢王朝から独立を果たす。3世紀に入り、中国が魏晋南北朝の戦乱期に入ると、インド化が始まる。