13世紀の東南アジア vsモンゴル帝国

復習 14世紀の東南アジア

 14世紀、諸島部では、ジャワ島のマジャパヒト王国の全盛期を迎える。一方で、半島部ではタイ人がアユタヤ朝を建国した。

 今回のテーマは、それまでの王朝が衰退するきっかけになったモンゴル帝国の侵攻を見ていきます。

13世紀の国際情勢

 13世紀は、モンゴル帝国の時代である。13世紀初頭にチンギス=ハンが即位。60年代にフビライ=ハンが即位。79年に宋王朝が滅亡すると、フビライ=ハンは東南アジア諸国への侵攻を開始した。

vsモンゴル帝国

フビライ=ハン

 フビライ=ハンは、モンゴル帝国第5代ハン(皇帝)である。60年に即位したが、王族たちの賛成が得られなかった。そのため、モンゴル帝国は元王朝と4ハン国に分裂した。

 79年、フビライ=ハンは宋王朝を滅ぼす。それまで、東南アジアの多くの国は宋王朝と交易を行った。フビライ=ハンは、東南アジア諸国に朝貢を促した。しかし、多くの国がこれを拒否した。これが、フビライ=ハンの東南アジア侵攻のきっかけである。ちなみに、日本も同時期にフビライ=ハンの侵攻(元寇)を受けている。

フビライ=ハンvsベトナム

 13世紀のベトナムは、陳朝の時代である。南には、チャンパーという国があった。

 最初に進行を受けたのは、53年のモンケ=ハンの時代である。モンケ=ハンは、雲南地方の大理国を滅ぼすと、ベトナムへ侵攻。一時ハノイが占領されたが、すぐに撤退した。 

 フビライ=ハンが即位すると、陳朝は、元王朝に服従した。

 79年、フビライ=ハンは中国南部の宋王朝を滅ぼす。フビライ=ハンは東南アジア各国に朝貢を要求した。南ベトナムのチャンパーはこれを拒否した。81年、フビライ=ハンがチャンパー(南ベトナム)への遠征を実施。陳朝も出兵要請が来たがこれを拒否した。

 85年、フビライ=ハンは報復として陳朝(北ベトナム)へ侵攻。暴風雨によって救われた。87年に再び侵攻を受け、一時首都のハノイを占領されたが、補給が続かず撤退した。

フビライ=ハンvsミャンマー

 13世紀のミャンマーはパガン朝の時代である。パガン朝は、上座部仏教を篤く保護した。そのため、多くの寺院が建設。これにより、財政が大きく悪化していた。

 ベトナム侵攻に失敗したフビライ=ハンは、87年にミャンマーへ侵攻した。都パガンはモンゴル軍に占領された。その後、モンゴル軍は撤退したが、パガン朝は復活できず、分裂状態になっていく。

フビライ=ハンvsジャワ島

 13世紀のジャワ島は、シンガサリ朝の時代である。当時のシンガサリ朝は内紛状態であった。

 ミャンマーを占領したフビライ=ハンは、92年にジャワ島へ侵攻した。フビライ=ハンは撃退できたものの、シンガサリ朝は衰退。フビライ=ハンと結びついたマジャパヒト王国が成立する。

ムスリム商人の台頭

 モンゴル侵攻の前の13世紀の東南アジアでは、ムスリム商人が拠点づくりを開始していた。

 スマトラ島の北部やフィリピンなど強国がない諸島部にムスリム商人は拠点をおいた。

タイのスコータイ朝

 スコータイ朝は、13世紀半ばに成立したタイ人による最初の王朝である。

 タイ人は、もともと雲南地方(中国内陸部)においていた。11世紀に雲南地方に大理国が成立すると、インドシナ半島へ進出した。

 移住したタイ人は、当初カンボジア(クメール人)のアンコール朝に従属していた。しかし、アンコール朝は次第に衰退。13世紀なかばに独立した。

 80年代にはいり、チャンバーなどの周辺国がモンゴル帝国の侵攻で混乱。これに乗じてスコータイ朝は全盛期を迎える。ラーマカムヘーン王の全盛期である。この時代にタイ文字が成立。ラーマカムヘーン王は上座部仏教を保護。この時代に多くの寺院が成立した。