1810年代の東南アジア ウィーン体制と東南アジア

復習 1820年代の東南アジア

 スマトラ島やジャワ島で反オランダ運動が起こる。ジャワ戦争である。オランダは、本国でもベルギー独立運動が起こり、オランダ受難の時代を迎える。

1810年代の国際情勢

 1810年代、ヨーロッパではナポレオン戦争が終結。ウィーン体制が構築される。

 

ジャワ戦争の理由

 オランダは、ウィーン会議で王政が復活した。ナポレオン帝政時代にオランダ東インド会社は解散。ウィーン体制でオランダ王国は復活した。しかし、オランダ東インド会社は復活せず、ジャワ島が政府の直轄地とした。

 当時のジャワ島は、中国系移民(華僑)やイギリスなどのヨーロッパ人が進出。地主(王侯貴族など)から農地を賃貸して農場経営を行っていた。新政府は、オランダ人以外の移民を排除するために、農地の賃貸を禁止した。これにより、地主階級である王侯貴族が反発。25年のジャワ戦争につながる。

 同じ頃、イギリスは、ラッフルズがシンガポールを占領した。

ウィーン会議

 ウィーン会議は、14年9月に始まった講和会議である。領土問題で会議は難航。15年6月にようやく調印に至った。

オランダの条項

  • オランダ立憲王国として復活
  • 正統主義に基づき、イギリスが奪った拠点は返還される
  • イギリスへ、南アフリカ(ケープ植民地)、スリランカを割譲
  • オーストリアから、ベルギーを獲得

イギリス

  • ナポレオン戦争時に獲得した拠点はすべて返還
  • オランダから、南アフリカ、スリランカを獲得。
  • ロシア、プロイセン、オーストリアと四国同盟を締結

 イギリス=オランダ協定もこの流れで始まった交渉である。

ナポレオン戦争とイギリス

 転換点は、19世紀初頭のナポレオン戦争である。オランダ王国は、ナポレオンに征服される。東南アジアのオランダの拠点もナポレオンの支配下に入った。

 イギリスは、ナポレオンと戦いながら、世界各地にあるオランダ拠点を次々と奪っていった。長崎(日本)で起きたフェートン号事件もその1つである。

 東南アジアも例外ではない。ジャワ島などが一時イギリスに占領された。その中心がラッフルズである。

17世紀、18世紀のオランダとイギリス

 オランダとイギリスは、17世紀前半にアジアへ進出した。アンボイナ事件でイギリスが敗北。イギリスは東アジアと東南アジアから撤退。ここからインド経営に注力。一方、オランダは東南アジアと東アジアの交易をほぼ独占した。鎖国政策下の日本も、ヨーロッパではオランダのみと交易を継続した。