1850年代の東南アジア インド大反乱とアロー戦争

復習 1860年代の東南アジア

1850年代の国際情勢

 48年革命で、ヨーロッパでは正統主義が崩壊。国民国家が成立した。そ

ナポレオン3世とベトナム

インドシナ出兵

 ベトナムは、62年のサイゴン条約をきっかけにフランスの植民地化が始まった。今回はそのきっかけになったナポレオン3世のインドシナ出兵を見ていきます。

 57年、ベトナムの阮朝は、フランス人とスペイン人の宣教師をが発生翌58年、これを口実にナポレオン3世はインドシナ出兵を決定した。

48年革命とナポレオン3世

 フランスは、二月革命(48年革命)で七月王政が崩壊。第二共和政へ移行する。同48年12月の大統領選挙でナポレオン3世(ルイ=ナポレオン)が勝利。52年、国民投票で皇帝になった。

 翌53年のクリミア戦争で、イギリスとともにオスマン帝国に援軍を派遣。56年、クリミア戦争に勝利。

アロー戦争

 アロー戦争は、クリミア戦争が集結した。56年から60年まで続いた英仏連合軍と清王朝(中国)との戦争である。

 当時の清王朝は、中国南部で発生した太平天国の乱に苦慮していた。太平天国は、キリスト教に類似した宗教団体がベースになっていた。その観点から

宣教師殺害事件

 62年、フランス(ナポレオン3世)はベトナム(阮朝)と講和。インドシナ出兵は集結した。この条約がサイゴン条約である。サイゴン条約の内容は以下の通りである。

  • キリスト教の布教の自由を認める。
  • 南ベトナムをフランスに割譲
  • 貿易の自由化

ローマ教会とスペイン

インドシナ出兵

イギリスとミャンマー

パーマストン

 50年代のイギリスはどのような状況であったのであろうか。この時代は、パーマストン外交の時代である。

 パーマストン子爵は、30年に外務大臣に就任。55年には首相に就任している。

 パーマストン首相の外交スタイルは、自由貿易の推進である。ヨーロッパでは、各国の独立運動を支援。アジア諸国に開国を促した。

  • 30年代 ベルギー、ギリシャの独立運動を支援。
  • 40年代 アヘン戦争に勝利。

 50年代に入り、フランスで第二帝政が始まるとナポレオン3世と良好な関係を築く。これが、英仏連合軍の快進撃に繋がり、クリミア戦争、アロー戦争の勝利につながる。

インド大反乱

 52年、第2次ビルマ戦争にイギリス東インド会社は勝利。ミャンマー沿岸部を獲得した。しかし、イギリス東インド会社の再興は長くは続かなかった。

 56年、アロー戦争が勃発。イギリス軍も清王朝へ侵攻した。

 翌57年に事件が起きた。イギリス東インド会社のインド人傭兵部隊(シパーヒー)の反乱である。これがインド大反乱の始まりである。

 58年、インド大反乱は鎮圧。ムガル帝国は滅亡。一方で、イギリス東インド会社の解散も決定された。これが77年のイギリス領インド帝国につながる。

第2次ビルマ戦争

 当時のビルマは、ラタナコーシン朝の時代である。52年、ラタナコーシン朝は、イギリス船への課税を行った。

 イギリスはこれに講義して、開戦。短期決戦でイギリスは勝利した。

 ラタナコーシン朝は、ミャンマー沿岸部をイギリスに割譲。ラタナコーシン朝は内陸国となった。

タイの不平等条約

治外法権

 タイ(シャム)国王ラーマ4世は、54年に清王朝への朝貢を停止した。

 翌55年、タイ国王は、イギリスと通商条約(ボウリング条約)を締結した。これにより王室の貿易独占が廃止。自由貿易と治外法権を認めた。

 自由貿易により、タイの米の輸出拠点になった。タイ産の米は、東南アジアのイギリス植民地で売られた。イギリスの商業拠点はタイ産の米によって支えられた。また、イギリス産の工業製品がタイに流入した。

 江戸幕府(日本)は、前54年に日米和親条約を締結。このときには治外法権を認めていない。(治外法権を認めたのは、58年の日米通称修好条約)。

ラーマ4世

 タイは、ラタナコーシン朝の時代である。ラーマ4世は。51年に即位した。

アロー戦争

 タイ(シャム)王国が朝貢を停止した。清王朝はどのような状況であったのであろうか。

 51年、中国南部で太平天国の乱が始まった。この状況をみて、タイ王国は、54年に朝貢を停止した。

 56年、クリミア戦争に勝利した英仏連合軍が衰退期に清王朝へ侵攻。アロー戦争が始まった。60年に北京条約を締結。清王朝の敗北に終わった。

 日本も、アロー戦争の状況を鑑みて、58年に日米和親条約を締結。治外法権を容認した。 

オーストラリア

ゴールドラッシュ

 オーストラリアは、アジアではなくオセアニアの国である。しかし、すぐ北にはニューギニア島やジャワ島がある。当時のオーストラリアはイギリス領である。そのため、イギリスの太平洋地域への進出はオーストラリアを中心に進む。

 51年、オーストラリアで金鉱が発見される。ゴールドラッシュである。これにより、多くの移民がオーストラリアに集まった。最初はアイルランド人などヨーロッパの人々が中心であった。しかし、インドや中国などアジア系移民も流入。1880年代の白豪主義につながる。

 ちなみに、本家ゴールドラッシュのカリフォルニアのゴールドラッシュは3年前の48年に始まった。。