1860年代の東南アジア ナポレオン3世のインドシナ出兵

1870年代の東南アジア

1870年代の国際情勢

ナポレオン3世とベトナム

ナポレオン3世

 60年代のフランスは第二帝政の時代。ナポレオン3世による海外遠征が始まった時代である。

 50年代に皇帝に即位したナポレオン3世は、クリミア戦争(vsロシア)とアロー戦争(vs清王朝)に勝利。

 ナポレオン3世は、積極的に海外進出を勧めていた。インドシナ出兵もその1つである。同じ頃、アメリカが南北戦争の混乱にある中で、メキシコ出兵を実施している。

 しかし、70年の普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)に敗北。ナポレオン3世は廃位。第三共和政へ移行する。

インドシナ出兵

 58年、ナポレオン3世は、宣教師殺害事件を理由にインドシナへ出兵。南ベトナムを制圧した。

ベトナム(サイゴン条約)

 62年、フランス(ナポレオン3世)はベトナム(阮朝)と講和。インドシナ出兵は集結した。この条約がサイゴン条約である。サイゴン条約の内容は以下の通りである。

  • キリスト教の布教の自由を認める。
  • 南ベトナムをフランスに割譲
  • 貿易の自由化

カンボジア保護国化

 ナポレオン3世は、インドシナ出兵が講和すると、今度は隣国のカンボジアへの進出を模索した。

 当時のカンボジアは宗主国をタイとしていた。63年、ナポレオン3世(フランス)はカンボジアの王位継承に介入。これに乗じてカンボジアを保護国とした。

 保護国とは、主権の一部を他の国に奪われた国である。具体手的には、外交(第3国との条約の締結など)、軍事(開戦の決定など)や財政(予算)について、他国の承認が必要になる。

 ここで待ったをかけた国がある。宗主国のタイである。タイは、イギリスを利用してフランスに手を引かせようとした。ただ、当時のイギリス(パーマストン)とフランス(ナポレオン3世)の関係は良好であった。そのため、イギリスは大きな圧力とはならなかった。

 65年、タイは、カンボジアの一部の領土を獲得することで、フランスがカンボジアを保護国にすることを認めた。

イギリスとマレーシア

海峡植民地の直轄化

 イギリスは、19世紀初頭のナポレオン戦争時にマレーシアに再進出。26年、オランダと協定を結びマレー半島南部を植民地にした。

 67年、イギリス東インド会社に統治させていたマレー半島南部をイギリス本国の直轄地にした。

イギリス東インド会社

 イギリス東インド会社は、17世紀初頭に設立された貿易会社の1つ。イギリス政府からインドや中国の交易の独占権を与えられていた。

 18世紀前半に、産業資本家が政界に進出。これにより、イギリスは自由貿易政策を進めるようになった。58年のインド大反乱を受けて解散が決定された。

タイ国王 ラーマ5世即位

ラーマ5世の即位

 タイ王国(シャム王国)では、68年、ラーマ5世が即位。ラーマ5世、1910年に崩御した。タイ王国は、明治時代のように西洋化政策を進めていった。多くの領土を失ったものの、フランスとイギリスの対立を利用して、独立を維持した。

ラタナコーシン朝

 ラタナコーシン朝は、現在まで続くタイの王朝である。成立は18世紀後半。前王朝のアユタヤ朝がミャンマーのコンバウン朝似滅亡するとそれを再興する形で成立した。

カンボジアをフランスに奪われる

 ラーマ5世は、積極的に西洋化政策を勧めていった。では、ラーマ5世は、このような改革を実施したのであろうか。その理由はラーマ5世が即位する前に起きた事件が影響している。

 それが、ナポレオン3世(フランス)によるカンボジア保護国家である。タイは、それまでカンボジアの宗主国であった。63年に、フランスはカンボジアを保護国化。65年、宗主国のタイもこれを容認した。

ラーマ5世の改革

 ラーマ5世は、カンボジアを奪われた反省から、日本の明治維新のように、西洋化政策を積極的に進めていった。この改革はチャクリ改革と呼ばれた。

 一方で、列強への警戒も怠らなかった。鉄道建設では、先進技術を持つイギリスではなく、新興国のドイツに依頼している。

明治維新

 68年、この年もうひとりの若き君主が誕生した。明治天皇である。68年、明治維新の年で、大政奉還によって明治天皇の親政が始まった。

 2人が崩御したのも20世紀初頭でほぼ同時期である。19世紀後半の帝国主義の時代、2人の君主は列強から自国の独立を守り抜いた。