1880年代の東南アジア
19世紀は、東南アジアがヨーロッパ諸国に植民地化されていく時代である。
- フランス 清仏戦争に勝利。ベトナムを完全に保護国にした。
- イギリス 第3次ビルマ戦争に勝利。ミャンマー全土を植民地にした。
- ドイツ 太平洋、東南アジアへの進出を開始
1880年代のヨーロッパ
本題に入る前に、1880年代のヨーロッパ情勢を見てみましょう。70年代から80年代はビスマルクの協調外交の時代である。その象徴が78年ベルリン会議である。これにより、ヨーロッパの緊張はなくなり、ヨーロッパ諸国は積極的に海外進出を行うようになる。
オランダ、スマトラ島へ
アチェ戦争
アチェ戦争とは、73年に始まった。東南アジアのアチェ王国にオランダが侵攻した戦争である。アチェ王国はスマトラ島の北端にある王国である。一方、オランダはジャワ島を拠点に東南アジアの植民地経営を行っていた。1903年にオランダ王国の勝利で終結した。
アチェ王国とは
アチェ王国とは、スマトラ島北部のイスラム教の王国である。15世紀末に建国した。オランダとの交易で栄えた。
スマトラ島は、マレー半島の西ある島である。マレー半島とスマトラ島の間にあるマラッカ海峡は、現在で海上交易の重要な拠点である。
転換では、19世紀頃から始まった。イギリスのマラッカ海峡への進出である。1824年、オランダとイギリスは協定を締結。マレー半島はイギリスの勢力圏、スマトラ島はオランダの勢力圏とされた。ここから、オランダのスマトラ島の植民地化が始まった。
オランダは、拠点であるジャワ島に近い南西部からスタート。73年ついに
オランダと東南アジア
オランダは、16世紀後半から始まったオランダ独立戦争で建国した国。オランダの東南アジア進出は、この頃から始まっていた。
拠点はジャワ島のジャカルタ(当時はバタヴィアとよばれていた)である。ジャカルタは現在、インドネシアの首都になっている。
東南アジアの統治は、オランダ東インド会社が行っていた。
フランスとベトナム
阮朝
阮朝とは、18世紀初頭にに成立したベトナムの王朝である。清王朝(中国)を宗主国とし、科挙などの中国の政策を導入していった。
フランスの東南アジアへの進出
フランスが東南アジアへ進出を始めたのは、50年代のナポレオン3世の時代である。その拠点は、ベトナム南部とカンボジアであった。
70年代のフランス
70年、フランスはドイツ=フランス戦争に敗北。ナポレオン3世が失却。第二帝政から第三共和政へ移行した。
第三共和政の成立当時は混乱。パリ=コミューンの社会主義政権ができるほど混乱をしていた。そのため、70年代前半は積極的に海外進出する余裕はなかった。
黒旗軍
黒旗軍とは、劉永福がベトナム北部で結成した農民軍である。
劉永福は、もともと、太平天国の人間であった。64年に太平天国の乱が鎮圧されると、ベトナム北部へ亡命。ここで黒旗軍を結成した。