1930年代の東南アジア タイの立憲革命

1940年代前半の東南アジア

 1940年代前半の世界は、第二次世界大戦の時代である。と雲南アジアでは、欧米の植民地であった東南アジアに日本軍が進軍していった。日本は、劣勢になると東南アジア諸国の独立を承認した。日本の敗戦でこれは幻に終わった。ただ、戦後の東南アジア諸国の独立に大きな影響を与えた。

タイの立憲革命

ラタナコーシン朝

 ラタナコーシン朝は、現在も続くタイ王国の王朝である。成立は、18世紀後半である。都はバンコクに置かれている。

立憲革命

 32年、秘密結社の人民党がクーデターを決行。国王ラーマ5世は、立憲君主制への移行を承認した。

 39年、ピブン人民党政権は、国名をシャムからタイへ変更した。国号を母国語にし、ナショナリズムの高揚を図った。

ピブン氏と人民党

 ピブン氏は、タイの軍人である。パリに留学し、立憲君主制を学ぶ。帰国後に秘密結社である人民党を結成。立憲君主制の実現を計画した。

 32年6月に、クーデターを実行。憲法を制定し、立憲君主制へ移行した。

 ピブン政権は、39年にナショナリズムの高揚のために、国号をシャムからタイに変更した。

 41年に、太平洋戦争が勃発すると、日本と同盟し、イギリスと戦った。

原因は世界恐慌

では、なぜタイで立憲革命が行ったのであろうか。その背景にあるのは30年代の世界恐慌があった。輸出に依存していたタイ経済は不況に突入した。

 31年に入ると、イギリスがブロック経済を導入。フランスも追随した。イギリスの植民地のミャンマー・マレーシア、フランスの植民地のベトナムへの輸出には高い関税がかけられた。これにより、タイ経済はさらに悪化した。

フィリピンは独立へ

アメリカ合衆国の植民地

 フィリピンは、太平洋と南シナ海の間にある島国である。東南アジアの諸島部で、東のはずれにある国である。

 フィリピンは、米西戦争によってアメリカの植民地になっていた。

独立準備

 30年代に入ると、アメリカはフィリピン独立へと舵を切っていった。F=ローズベルト大統領の時代の34年、アメリカ議会はフィリピン独立法を制定。10年後の44年に独立することを約束した。実際は、日本軍の支配があったので46年に独立した。

 翌35年、自治領になり、フィリピン独立準備政府が成立。初代大統領にケソン氏が選ばれた。

フィリピン共産党

 では、アメリカ本国政府は独立へ踏み切ったのであろうか。

 理由の1つは、フィリピンの独立運動があった。第1次世界大戦以降、世界的な独立運動の動きがあった。フィリピンも例外ではなかった。ケソン氏などの知識人を中心に独立運動が展開された。

世界大恐慌

 2つ目の理由は、世界大恐慌があった。

 19世紀後半に入ると、アメリカ西海岸を中心にアジア系移民労働者の排斥運動が活性化した。30年代の世界大恐慌はこれに拍車をかけた。

 この背景のなか、フィリピン産の低価格の工業品の輸入が問題視されるようになった。そのため、フィリピンを独立させてフィリピン産製品に関税をかけようと動きが起こった。

インドシナ共産党 結党(ベトナム)

インドシナ共産党 → ベトミン(ベトナム独立同盟)

 ホーチ=ミン氏は、30年2月にベトナム共産党を結党。10月にインドシナ共産党に改名した。

 インドシナ共産党は、世界恐慌の影響で勢力を拡大。40年にフランスがナチスドイツの支配下に入ると、翌41年にベトナム独立同盟(ベトミン)を結成。本格的な独立運動が展開された。インドシナ共産党はその中核となった。

ミャンマー、イギリス領インドから分離

インドから分離

 ミャンマーは、イギリス領インドに併合されていた。

 35年、35年インド統治法が成立。イギリス領インドで地方自治がみとめられた。このとき、ミャンマーはイギリス領インドから切り離され自治領になった。

独立運動タキン党とアウンサン将軍

 ミャンマーでは、30年代に入ると反イギリス闘争がもりあがった。この闘争に参加した人々はタキン党と呼ばれた。

 30年5月、ラングーンでイギリス人とミャンマー人が衝突。これをきっかけに反イギリス運動は活性化した。その中心は、ラングーン大学などの学生たちであった。若きアウンサン氏もその1人であった。

 39年、アウンサン氏は、ビルマ共産党を結党。

 40年、イギリス政府は学生運動幹部を逮捕。これにより、タキン党運動は沈静化した。この時、アウンサン将軍ら一部の幹部は日本へ亡命した。彼らは、日本の支援を受けて再びミャンマーへ戻ることになる。