1940年代後半の東南アジア 東南アジア諸国の独立

1950年代の東南アジア

 1950年代、インドシナ戦争が終結。ジュネーブ講和会議でベトナムは南北に分裂。これがベトナム戦争につながっていく。

 今回は、ベトナム戦争の前哨戦であるインドシナ戦争と東名難アジア諸国の独立過程を見ていきます。

インドシナ戦争 

インドシナ戦争とは

 インドシナ戦争は。日本軍撤兵(第二次世界大戦)後、フランスとホーチミン(ベトナム独立同盟)との戦争である。46年の軍事衝突ではじまり、55年のジュネーブ講和会議で講和する。

アメリカの動向

 アメリカは、植民地独立に好意的であった。そのため、フランスの支援に対して消極的であった。

 49年10月、中華人民共和国が成立。アメリカはアジアの外交政策を大きく転換。アジア諸国の共産化を防止。フランス軍を積極的に支援した。

50年に朝鮮戦争が始まるとこれが加速した。

ベトナム国の樹立

 フランスは、インドシナ戦争の長期化に悩まされていた。そのため、懐柔策を講じた。

 阮朝最後の皇帝パオ=ダイ帝を国王にしたベトナム国を建国した。

カンボジア・ラオスへ波及

 東南アジアのフランス植民地は、大陸部の東部でベトナムとカンボジア、ラオスである。

 インドシナ戦争が長期化すると、カンボジアやラオスへ波及した。これらの国は53年にフランスから独立した。

ホーチミン政権

 ホーチミン氏は、30年に中国でベトナム共産党(後のインドシナ共産党)を結成。日本軍がベトナムへ進駐すると、ベトナムへ帰国。ベトナム独立同盟を結成。ゲリラ戦で日本軍を苦しめた。

45年8月15日、日本軍が降伏。28日ハノイで革命政府を樹立。阮朝のパオ=ダイ帝を退位させた。(パオ=ダイ帝は香港(イギリス領)へ亡命した)。翌9月2日、ホーチミン氏はベトナム民主共和国を結成した。

 46年12月、フランスがベトナムに派兵。インドシナ戦争が始まった。フランス軍は主要都市をすぐに制圧した。しかし、ホーチミン軍は農村部でゲリラ戦を展開。インドシナ戦争は長期化した。

フランス

 では、40年台のフランスはどのような状況であったのであろうか。フランスは40年代前半、ナチスドイツの支配下にあった。44年8月のパリ解放で第四共和政が始まった。

 パリ解放直後は、ド=ゴール政権が成立。しかし、総選挙で共産党が躍進。ド=ゴール政権は退陣。左派政権が成立した。

イギリス

イギリスの植民地

 イギリスの東南アジアの植民地は、半島部西部のミャンマーと諸島部のマレーシアである。

ミャンマー

 43年、日本軍はミャンマーの独立承認した。しかし、アウンサン将軍(アウンサン=スー=チー氏の父)らが反日運動を展開していた。

 45年8月、イギリスとミャンマーで武力闘争が行われた。47年、アウンサン将軍とイギリスのアトリー政権で独立について協定を締結。翌48年にミャンマーはビルマ連邦として独立した。一方で、アウンサン将軍は独立前年の47年12月に暗殺された。

マレーシア

 マレーシアは、東南アジア諸島部の国である。先住民のマレー人、インド系移民、中国系移民で構成されている。

 第二次世界大戦期の日本軍は中国系移民の虐殺を行った。そのため、中華系移民は抗日運動を展開していた。一方、先住民のマレー人は日本軍に対して好意的であった。そのため、第二次大戦後、先住民のマレー人と中華系移民の対立が激化した。

 日本が敗戦すると、マレーシアはイギリスの植民地に戻った。イギリス本国政府は、中華系移民の多いシンガポールを切り離し、マレー連合とシンガポールを分けて統治した。

当時のイギリスは

 45年7月の総選挙でアトリー労働党政権が成立。軍事よりも福祉を優先するようになった。軍事費削減の観点から多くの国の独立を承認するようになった。49年には中華人民共和国(毛沢東政権)を承認している。

 しかし、50年に朝鮮戦争が勃発。反共産主義の流れが起こる。51年の総選挙で敗北。チャーチル保守党政権が復活した。

オランダ

インドネシア独立戦争

インドネシアは、東南アジア諸島部の国である。第二次世界大戦以前は、オランダの植民地であった。第二次世界大戦中は、日本が占領していた。

 44年9月、日本はインドネシアの独立を承認した。しかし、翌45年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾。インドネシアの独立は白紙に戻った。17日、国民党のスカルノ氏が独立を宣言した。

 45年9月、イギリス軍がインドネシアに駐屯。その後、オランダが傀儡政権を樹立。オランダの傀儡政権とスカルノ政権で土k率交渉が始まった。

 47年1月、交渉が決裂。インドネシア独立戦争が勃発した。オランダ軍はジャカルタなどの主要都市を制圧した。スカルノ大統領も幽閉された。

 スカルノ政権側は、オランダ軍の不当な抑圧を国際連合に訴えた。当時、アメリカはフィリピンの共産党勢力の活動とインドシナ戦争で苦慮していた。49年1月、国際連合の安保理は、オランダに対し非難決議を可決。アメリカを仲介とした和平交渉が始まった。

 49年11月、ハーグ協定が成立。インドネシアの独立が承認された。

スカルノ政権

 翌50年、憲法を改正。改めてスカルノ政権が成立した。スカルノ氏は第三世界のリーダーとして50年代に活躍。55年にAA会議を開催した。

ボルネオ島

 ボルネオ島は、東南アジアに浮かぶ島国である。中欧に山脈があり南シナ海に面した北部とインドネシアに近い南部で分かれていた。

 第二次世界大戦以前、北部は、ブルネイ王国とサラワク王国、イギリスの直轄期に分かれていた。一方南部はオランダ領であった。

 インドネシア独立戦争で、南部はインドネシア領になる。北部では、サラワク王国が統治権をイギリスに返上。イギリスの直轄になった。

 現在、ブルネイ王国はそのまま現在も続いている。イギリスの直轄地とサラワク王国はイギリス領になっている。

アメリカ

フィリピンの独立

 フィリピンは、第2次世界大戦以前からアメリカから独立を約束されていた。しかし、第二次世界大戦により日本軍がフィリピンを占領。独立は流れた。

45年1月、マッカーサー将軍がフィリピンに上陸。翌2月、日本軍はフィリピンから撤兵した。翌46年7月、フィリピン共和国が正式に独立した。

 初代大統領は、ロハス氏。ゲリラ活動をしていた共産党組織の一掃を行った。48年、キリノ大統領。共産党組織に対して「アメとムチ」で対抗して鎮圧した。

独立国 タイ

 タイは、半島部のちゅおうにある国である。タイは、第二次世界大戦以前からラタナコーシン朝が続いていた。

 第二次世界大戦中には、親日政権が成立。日本人生で差参戦した。そのため、イギリスは敗戦国として賠償金を求めようとした。しかし、アメリカはこれを不問にした。

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