1950年代の東南アジア ジュネーブ講和会議

マレーシア

シンガポール自治政府

 59年6月、イギリスはシンガポール自治政府をみとめた。総選挙では、リ=クアンユー氏の人民行動党が勝利した。

マラヤ連邦

 57年6月、マラヤ連邦がイギリスから独立した。シンガポールやボルネオ島北部は、イギリスに残留した。

ジュネーブ講和会議(インドシナ戦争) 

ジュネーブ講和会議とは

 ジュネーブ講和会議とは、インドシナ戦争の講和会議である。この会議で、ベトナムはフランスから独立した。

ベトナム戦争へ

 ジュネーブ講和会議で、北ベトナムにはホーチ=ミン共産党政権(ベトナム民主共和国)が成立した。ホーチ=ミン氏は、周辺諸国の社会主義勢力を支援した。

 南ベトナムでは、55年にアメリカは南ベトナムにゴ=ディン=ジェム政権を樹立。56年の南北統一選挙は実現しなかった。60年、共産主義系の南ベトナム解放民族戦線が結成。ベトナム戦争へつながる。

軍事同盟 SEATO

 アメリカは、ジュネーブ休戦協定に調印しなかった。54年9月、アメリカは東南アジアの共産化を防ぐための軍事同盟を東南アジアで結成した。これがSEATO(東南アジア条約機構)である。参加国は以下のとおりである。

  • 主要国
    • アメリカ
    • イギリス
    • フランス
  • 東南アジア
    • フィリピン(アメリカから独立)
    • タイ(独立国)
  • 周辺国
    • オーストラリア
    • ニュージーランド
    • パキスタン(vsインド)

AA会議

 54年の周恩来ネルー会談をうけて、55年4月、アジアアフリカ会議が開催された。開催地はインドネシアのバンドンである。そのため、バンドン会議とも

インドシナ休戦協定

 インドシナ戦争は、54年4月からスイスのジュネーブで休戦交渉が始まった。54年5月、ホーチ=ミン軍がフランス軍に大勝。(ディエンビエンフーの戦い)。7月、ホーチミン氏とフランスは休戦協定を締結した。協定内容は以下のとおりである。

  • 北緯17度線で、軍事境界線とし、南側からホーチミン軍が撤退。北側からフランス軍が撤退することが決まった。
  • 2年後の56年7月に選挙を実施、ベトナムの南北統一政府を樹立する。
  • フランス政府は、ラオスとカンボジアの独立を認め、中立の立場をとる。

 この条約には、フランス、ベトナム民主共和国(ホーチミン政権)、イギリス、ソ連、中華人民共和国が署名した。アメリカとベトナム国(南ベトナム)は署名を拒否した。

ネルー周恩来会談

 54年4月のジュネーブ講和会議では、3つのことが話し合われた。

  • インドシナ戦争の和平交渉
  • ラオスとカンボジアの独立
  • 朝鮮戦争の和平交渉

参加国は、常任理事国のアメリカ、ソ連、イギリス、フランス(中華民国<蒋介石政権>は不参加)と当事国のベトナム国(親フランスのベトナムの政権)、ベトナム民主共和国(ホーチミン政権)、ラオス、カンボジア、北朝鮮と韓国が参加した。さらに、中華人民共和国(毛沢東政権)とインドが参加した。

 中華人民共和国とインドの参加は、第三世界の台頭を意味した。中華人民共和国の周恩来首相とインドのネルー首相が54年4月に会談。テーマはチベット問題であった。この時発表されたのが平和五原則である。

カンボジア、ラオスの独立

 インドシナ休戦協定の前年の53年、カンボジアとラオスが独立した。

 ラオスは、49年にラオス王国としてフランスから自治権が与えられた。50年に王政に反対する「自由ラオス」を結成。53年、フランスはラオス王国の完全独立を認めた。56年、共産党系の「自由ラオス」は「ラオス愛国戦線」に改称。王党派と共産党系の内戦状態に入った。

アメリカと軍事同盟(フィリピン)

 48年、キリノ大統領。「アメとムチ」政策で共産党勢力を一掃した。51年にアメリカと軍事同盟(米比相互防衛条約)を締結した。

 53年、マグサイサイ大統領。キリノ大統領時代の国防長官。土地改革を断行。

 57年、マカバガル大統領。外国資本を積極的に受け入れた。これにより、民族系資本が大打撃を受ける。60年代にインフレが起こる。

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